03.車椅子ツレッキングミニ講演から[永島章子]
(99.7.6)
毎年講演は誰に頼もうか悩むのですが、今年の車椅子ツレッキングは、アッコちゃんが自分から講演をするといってくれました。
アッコちゃんは言語障害もあるので、ボランティアさんが解説しながらの講演になりました。
アッコちゃんは自分でも、この講演が決まってから、言語訓練を受け、少しでもみんなに分かってもらうよう、自分の言葉で伝えようと努力しました。
内容もトーキングエイドという機械で打ち込み、何回もボランティアさんと話し合い決めていったものです。
アッコちゃんの肉声が伝えられないのが残念です。
その内容を今回紹介します。
こんにちは。私は永島章子といいます。
少しの間、私の話を聞いてください。
私は今、亀沢(墨田区)にある「のぞみの家」に通っています。
そこでは、機能訓練や、言語訓練を受けたり、楽しいことでは、陶芸や料理を習っています。
今はこんな、気楽な生活を送っています。
私が生まれたのは、昭和50年の3月、その日は桜の花が満開で、とてもあたたかな日だったそうです。
「絶対女の子がいい」と希望していたお父さんは、うれしくて家までスキップしながら帰ったそうです。
でも、そんな騒ぎもつかの間のことで、
ある日、私の様子が気になったお母さんは、生まれて3ヶ月の私を連れて病院を探しました。
北区にある都立北療育園という病院でした。
そこで私は「脳性マヒ」という肩書きが付いたため、6才になるまで毎日、病院に通いました。
お母さんがいつもおんぶして通っていたそうです
そして、6才になるときに、訓練を受けるため4年間、施設に入りました。
そのとき、私はずっと一緒だったお母さんと離れて暮らすことになり、
大泣きしたことを覚えています。
というわけで、小学校1年生から4年生まで施設で暮らすことになりました。
その施設での暮らしは、朝起きると、その施設の隣にある養護学校に通い、
学校の授業が終わると施設に戻って訓練する毎日でした。
足を伸ばしたり、手を伸ばしたり、
器具を使って立ったり、ものをつかんだりする訓練でしたが、
足を伸ばす訓練はとてもきつくて私にはつらい時間でした。
でも、楽しいときもたくさんありました。
みんなでクリスマスパーティをしたこと、
毎日の食事がにぎやかだったこと、
時々訓練に来るお母さんにお風呂に入れてもらったこと
なんといっても友達がたくさんできたことは今でもいい思い出になっています。
施設を出てからの私は、地域の養護学校に家から通うようになりました。
友達との別れは、少しさみしかったけれど、お父さん、お母さんと暮らせるのはとてもうれしかったです。
振り返ってみると、つらいこともたくさんありましたが、
今思えば家族だけでなく、大勢の人たちと出会えたことが、私の人生を大きく変えていました。
今では、人との出会いが大好きな私です。
これからも積極的に外に出て、
たくさんの人と出会いたいと思っています。
今日は私の話を聞いてくださってありがとうございました。
私のことで何か質問はありませんか?
施設にはいるときもアッコちゃんとお母さんはよく話し合って、アッコちゃんは少しでも良くなりたいと施設に行ったそうです。
今、トーキングエイドという音声が出る機械で打ち込んで会話をしていますが、その機械は12万円もするそうです。パソコンにつなぐことはできないとか。
パソコンも使用していましたが、手に障害がある人用の大きなパネル(キーボード)が壊れてしまい、製造も中止になったとかで、パソコンが使えない状態です。
なかなかバリアフリーとはいっても、使用頻度の少ないものは製造しなくなります。
ちょっと話がそれましたが、アッコちゃんはいつかアメリカのバークレーに行きたいと少しずつ前向きに生活しています。