(2011年8月4日〜9月15日)
2011年京都ザンスカール遠征隊
インドの北西部にあるザンスカールの南部には、これまで登山家や探検家が足を踏み入れたことのない未知の谷が幾つか残っており、知られざる6000m前後の未踏峰が未だに沢山眠っている。
2009年にレルー谷に入って、誰も見たことのない数多くの魅力的な未踏峰を探査するという感動的な遠征を経験した。
その遠征で、レルー谷の南に隣接するレナック谷とギアブル谷の山塊も、同じように魅力的な未踏峰が眠っているのではとの強い感触を得た。 帰国後早速インドのヒマラヤン・クラブの重鎮であるハリス・カパデイアさんと、同クラブの中心的メンバーであるサテイヤブラタ・ダムさんに問い合わせたところ、両谷の探査に入った記録は全く知らないとの情報をいただいた。
6100m台までの割と標高の低い山だが、この山域の周辺には、6000m峰が15座、5900m峰が10座、5800m峰が8座、5700m峰が14座があり(合計47座)、その全てが誰も見たこともない未踏峰なのだから胸が踊る。
2010年の夏にこのレナック谷・ギアブル谷の未踏峰探査に6人で出かけたが、8月5日にデリーに到着した夜に、ラダックのレー周辺で土石流の災害が発生。とてもザンスカールに入れる状態ではないと判断し、両谷の未踏峰探査を残念ながら断念して8月11日にデリーより帰国した。
今回の探査は、前年に実現出来なかったレナック谷とギアブル谷の未踏峰探険に再度挑戦する計画であり、2011年8月4日〜9月15日の予定で日程を組んだ。
2009年のレルー谷探査行の際は、全く予備知識もなく、ぶっつけ本番で出かけ、山の同定に苦労した。今回は2010年の春から、Google Earth でこの山塊の山々の3D画像のコピーをとり、1:50,000の地図を参照しながら、3D画像に標高ラベルを貼り付けて山の同定を行って準備をした。
今回のメンバーは、谷口朗さん、伊藤寿男さん、八太幸行さん、岡部光彦さんとリーダーの私の5名。70〜73歳の熟年遠征隊である。
現地でお世話になるのは、レーに事務所を持つHidden Himalayaのツワン君。彼はデリー大学の大学院で学んだインテリだが、ザンスカール出身の非常に気さくなガイドで、私達は2007年より彼のお世話になっている。
滋賀県の比良山の裾野に住んでいた日本女性をみそめて結婚。奥さんの紗智さんは、元西遊旅行に勤めた経験があり、現在1歳半の創一君を育てながら、彼女の旅行代理店の豊富な経験を生かして、ツワン君と二人で事務所を経営している頑張屋さん。小さな乳飲み子を抱えたレーに住む日本女性の貴重な体験談をつづった、彼女のブログは
( http://zanskar555.blog117.fc2.com/ )はなかなか好評である。
8月4日の早朝の便で、デリーへ出発。5日の午後、IMF(Indian Mountaineering Foundation)の本部を訪問した。IMF担当者より、104 Open Peaksの修正リストを貰った。 「オープン・ピーク・システム」は、ラダック及びザンスカールでの登山を、外国人登山者に奨励するために制定されたインド・政府の特例である。ラダックとザンスカールの104のオープン・ピークに限り、登山者に要求されるX-mountaineeringVisaの取得が不要で観光ビザでの入国が可能であり、且つ登山許可料の事前送金も必要なく、登山前の「ブリーフィング」の為にIMFを訪問した時の支払いが認められる特典が与えられている。 現在、このオープン・ピーク・システムは、ラダックとザンスカールの104座にのみ限定されており、その他の山域にはオープン・ピーク・システムは適用されていない。
8月6日はTPDCの観光バスで半日のデリー市内観光を行い、7日朝のフライトでレーに移動した。
8日はHidden Himalayaにアレンジして貰った車でレーのチベット難民村を訪問した。「Tibetan Children School」は、ダラムサラのダライ・ラマ14世が支援するなかなか立派な施設の充実した学校だった。経済的にはオーストリアのSOSも支援している由。ツワン君も幼少の頃この学校で勉強した後、ダラムサラの上級校へ転向し、後にデリー大学に入学している。
その後、「Central Institute of Buddism Studies」という仏教大学を訪問。丘の上のキャンバスは広大で、生き生きとした若い男女の学生たちの姿が印象的だった。図書館には、チベット仏教の経典から、仏教関係の参考書、さらには歴史・地理関係の書籍だけでなく、一般文学書も豊富にそろっている図書館だった。
その後、小さなお寺だが、仏像が立派なShankar Gompaに参拝して、今回の遠征の安全を祈願した。
1. レーからパダムヘ:
8月9日〜11日の3日間をかけて、チャーター車でパダムに移動した。リキル・ゴンパ、アルチ・ゴンパ、リゾン・ゴンパ、ラマユル・ゴンパは既に2度参拝しているので、今回は、これらのゴンパの訪問を割愛して、ダー・ハヌー経由で行くことにした。
9日朝に訪問した岩山の上にある小さなBasgo Gompaは、かっては軍事上の拠点として利用されたらしいが、ゴンパから見下ろす景色は見事である。
ドクパの住むハヌーに期待していたが、ハヌーの村民に直接接触する機会が全くなく、ハヌーの特色に触れることは全くなかった。
10日は、騒々しい町のカルギルは立ち寄らず、ヌン峰を目指して真っ直ぐ南下した。Sankuから更に南に行ったPartickechegにある「Tourist
Bungalo」の前の草地に幕営。正面にヌン峰が見える素晴らしい景色の良いキャンプ場であった。
翌11日は、ヌン峰(7135m)から、クン峰(7077m)の北面をながめ、Shaft Glacier に聳える北大WV部OB会が初登頂したZ1(6181m)の鋭峰に感動。Pensi
La (4401m) を越えて、Darung Drung Glacier 周辺のZ3山群に圧倒され、Haskira Glacier, Kange
Glacier,Hnangshu Glacier 周辺の山々に見とれているうちに、午後6時にパダムに到着した。
8月12日は、次回探査予定のGompe Tokpoへの登路を調査するため、午前中にUrabak
の村を訪問。村のヤクを放牧するために、Gompe Tokpoの中流の放牧地まではヤクの踏み跡道がついており、必要ならガイドの世話も出来ると村のリーダーの回答を得た。
午後は、Bardan Gompaの分寺であるSani Gompaのナロジャ祭りを見に出かけた。祭りの総指揮官としてブータンからやってきたスタクナ系の高僧が、最上席に座っていた。冷たい強風の吹き荒れる中を、少年僧から成人僧までの舞踏が、つぎつぎとくり出し延々とつづいた。
2.パダムからLenak Nalaの入り口の村Shanka ヘ:
8月13日:10:50/Gakyi Hotel & Restaurant (Padam) - 14:20/Dorzong (3803m, N33-17-28.6,
E77-01-00.9)。
Hongemetに住んでおられるツワン君(ガイド)の母上を訪問し、御挨拶をした。2年ぶりの再会だが、昨年御主人を亡くされた為か、随分気弱になっておられた。その後、車でホテルを出発。2009年は車道はReru村までであったが、今回はIcharの先のDorzongまで車で行けた。以前テクテクと歩いたところを、車であっという間に通り過ぎるのは、奇妙な感じであった。Dorzongに集合すべき馬方のBig Tenzingと7頭の馬が未着で、ガイドのツワン君はやきもきしていた。
8月14日:7:30/Dorzong - 12:00/Tsetan (3800m, N33-14-56.6, E77-03-58.3)。
朝になってもBig Tenzingと7頭の馬は来ず。とりあえず出発する。10時頃になっても荷駄隊がやってこないので、ガイドのツワン君がDorzongに伝令を出した。もう一人の馬方のTargyasの3頭の馬と、Dorzongで臨時に雇った馬方と2頭の馬が、テントと私たちの個人装備を運んで、Tsetanに午後2時半に到着した。結局Big Tenzing と7頭の馬が
Tsetanにやってきたのは午後6時半であった。おとなしいツワン君も、Big Tenzingのあまりのルーズさに怒り心頭。
8月15日:7:20/Tsetan - 9:25/Kalbox - 10:15/Zamthang - 15:45/Testa (3968m, N33-10-41.5,
E77-10-06.3)。
Zamthangのメンダンと、その横にあるロック・ペインテイングはいつ見ても見事だ。南アフリカのドラッケンズ山脈にある、ブッシュマンのペインテイングが思い出された。
Tsarap川沿いの崖につけられたトラバース道を延々と歩くこの日の行程は長く、高度順応が未だ完全に出来ていない私には、非常にしんどい1日であった。テント設営後に体温を測ったら、38.6度Cの熱があった。
8月16日:停滞
前日の夕方から降り出した雨が朝になっても止まなかったので、停滞日とした。体調の悪い私には、非常に有り難い休養日だった。コックのChonjorが、八太、岡部両氏の誕生祝いにと、大きな立派なケーキを作ってくれた。「キャベツのおしたし」「ウリの葛汁」と「カブラの浅漬け」の日本料理を, 私がChonjorに教え、誕生パーテイの食卓をにぎわした。
8月17日:6:40/Testa - 7:40/Kuru - 15:30/Shanka (4234m, N33-04-51.6, E77-09-90.4)。
Lenak Nalaの入り口のShankaにようやく到着した。Shankaは畑地が狭い上に、路地
に区切られた4軒の民家からなる、人口約20人のこじんまりとした村。少し暗い感じがした。数年以内にTsarap 川沿いの車道が出来るので、車道に近いTangso村への移住計画の話が出ているらしい。
3.Lenak Nala 探査:
8月18日:7:40/Shanka - 9:20/Grazing Ground - 12:30/Camping Ground (4519m, N33-06-50.8,
E77-06-45.7)。
いよいよ今日から、Lenak Nalaの未踏峰探査が始まる。Shankaの村から、Lenak Nalaにかかる立派な橋を右岸に渡る。Lenak
Nalaは水量が多いので、ヤク放牧の為に橋が作られたものと思われる。Lenak Nalaは広く開けた谷だ。緑の草が生える放牧に適した台地が、つぎつぎと現れる。
対岸のLenak Nalaの左岸には、どっしりとした岩峰のP5665(L1)が聳え、スマートな山容のP5837(L2)がそれにつづく。水彩画でデザインをしたような、幻想的なカラフルな彩りが印象的だ。対岸にP5837(L2)が望まれる地図上に「Camping
Ground 」と記載のある広い平らな草地があってヤク小屋がある。登山者やトレッカー用のキャンプ場という意味ではなく、ヤク飼いの人達の小屋があるところを、ザンスカールではCamping
Groundと称されているようだ。このCamping Groundにはきれいな清流が流れていないので、少し上流の湧き水の出ている草地を我々の幕営地とした。
Lenak NalaとGiabul Nalaには山の数が多いので、混乱を避けるために、Lenak Nalaの山にはL1, L2, L3, Giabul Nalaの山にはG1, G2, G3の仮称をつけることにした。
8月19日:8:20/CS - 10:30/Lenak Nalaの左股と右股の合流点(4620m, N33-06-47.6 E77-04-55.3) -
12:30/CS。
高度順応の為、4519mのCSに停滞し、午前中は左股・右股の合流点まで偵察、午後は自由時間にすることにした。ガイドのツワン君と馬方のBig Tenzingを、P6070(L15)氷河との出合い近辺の、地図上で4831mと記載されている地点まで偵察に出すことにした。Lenak Nala 上部の氷河偵察の為には、この高度までBCを上げておこうという我々の計画である。
CSから約2時間で、二股に到着。Google Earthで見た二股から少し上流にある右股の滝を越えられるかどうか心配だった。右股の滝の右側(左岸)の草の斜面の傾斜がそれほどきつくなく、上手く渡渉が出来れば、この草の斜面を登って上の台地にでれば、後は台地をトラバースして十分上の第一氷河まででられるとの判断を得た。二股までは、草花がいろいろ咲き乱れ、実に美しいところだ。岩陰に青いケシもあちこちに咲いていた。
一方、ガイドと馬方は、「良いキャンプ場を見つけた」と、我々が二股に着くまでに引き返してきた。叉、右股の滝越えは、「ゴロタ石で馬が足を傷めるかも知れないので・・」と右股行きを避けたいような口ぶりだった。
午後は、一人で1時20分にCSを出て、CSの裏の4780mの小ピークまで登った。
CSから見えなかった右股奥に、P6020(L8)とその西側に英国隊が2009年に初登頂したSkilma Kangri (5970m?)が望まれ、写真を撮影した。
8月20日:7:10/CS - 8:10/左股・右股合流点 -11:30/Lenak Nala BC (4718m, N33-06-09.4, E-77--3-59.7)。
二股を越えて10時頃に、先行していた馬方やキッチン・スタッフが、馬から荷物を降ろし始めた。標高は、4650m前後である。ガイドのツワン君に「なんでこんな所で、荷物を降ろすんだ。Lenak BCは約4830mにするよう、昨日指示した筈だ」と私。「ここが、馬に適した草地があり、炊事用のきれいな水があるからベストです」とツワン君の言い分。
「私たちは、未踏峰の探査にきたので、上部の探査をしやすいように、テント地の場所も綿密に計画している。こんな所に幕営するなら、この遠征は失敗で終わりだ。払った金は返して貰わなくても良いから、明日撤退して帰国する」と、ツワン君をしかりとばし、私は一人でどんどん上流へ歩き続けた。30~40分たった後、私の怒りに恐れたのか、馬方とキッチン・スタッフは荷物を馬に積みなおし、私の後を追ってきた。私は、まだまだ先へ進みたかったが、「これ以上の上流には馬に食べさす草がないから・・・」
と泣きつかれ、結局4718mの場所に幕営する羽目になった。100m以上標高の低いところに幕営したことが、翌日の行動が大変しんどい結果になってしまった。
ポーターなら私達の要請する高度まで荷物を担ぎ上げてくれるが、ザンスカールの馬方は「馬が歩き難いから・・・。馬に喰わす草がないから・・」と勝手な言い分を主張するようだ。
8月21日:7:10/Lenak Nala BC - 14:00/5191m (N33-05-01.8, E77-00- 58.0) -19:00/Lenak
Nala BC。
今日はLenak Nalaの氷河に上がり、出来るだけ奥まで登って未知の未踏峰を探査する日だ。CSから暫く行くと、左手の右岸に雪稜の美しい端正な山容のP6070(L15)とその上流の堂々としたどっしり構えた大きな岩峰のP6180(L14)が現れる。P6070(L15)の秀麗な姿はLenak
Nalaの王女にたとえられよう。P6180(L14)の圧倒するような堂々とした姿は, Lenak Kingと言うべきだろうか。
P6070(L15)氷河の奥には、ピラミッド型のP5975(G3)が聳える。対岸の左岸には、モレーンの土砂山の奥に真っ白なP6080(L13)が、頭だけ覗かせている。
氷河の舌端からモレーンの上にあがり、モレーンの小山を幾つも超えた。P6070(L15)の直下を越える少し手前から氷河上に出た。ピッケルとアイゼンをとりだし、ヒドン・クレバスの危険を回避する為、アンザイレンしてタイト・ロープで氷河を登った。
左岸のP6080(L13)は、雪のついたピラミッド型の主峰は見えないが、岩峰の前衛峰が対岸に聳える。Lenak 氷河の最奥の未踏峰は、右岸のP6180(L14)沿いに更に上流へ登らないと見えない。L14を越えるあたりになって、P6054(R32)とその奥のP6128(R33)をようやく眺めることが出来た。Google Earthの影像で見ていたより、遙かに厳しい山容で、登頂はそんなに容易ではなさそうだ。時間は既に午後2時になっており、予定していたLenak Nala 左股の未踏峰の6000m峰6座を確認することが出来たので、5191mの地点から下山することにした。
70歳を過ぎた我々熟年登山者には、モレーンのガラ場の浮き石の多い下りは大変疲れた。重い足をひきずってBCに帰着したのは、午後7時だった。BCの位置を標高差で100m以上も下に設置したのは、大きな失敗だったと改めて反省。
L14, L15, L10, L13はオープン・ピークに指定されているが、R32とR33はオープン・ピークにはなっていない。
8月22日:休養日
前日の12時間におよぶ行動は、熟年登山者にはきつかった。ハードなアルバイトで疲れ過ぎているので、休養日とした。
ガイドのツワン君と馬方のBig Tenzingを右股の偵察に送り出した。「右股の第一氷河の下の台地まで登ってきました。良いテント地も見つけてきました。」との嬉しい報告。
一昨日のLenak Nala BC設置の時に、厳しく叱った効果があったのだろうか?
8月23日:6:10/Lenak Nala BC - 7:30/左股・右股出合 - 8:55/右股台地の上(4757m)
- 12:00/Lenak Nala 右股BC(5040m, N33-07-37.6, E-77-04-06.8)。
Lenak Nala左股BCより左岸を下り、右股から落ちてくる右股谷を2回渡渉。滝の右手にある草地の斜面を登り、台地にあがった。ここからは、ゴロタ石の小山が幾重にも重なり、小さな起伏を登ったり降りたり。荷物を運ぶ馬たちが、小山の下の谷沿いを登ってきた。右岸の急斜面を登って台地にでると、第一氷河にある氷河湖。この湖の下の東面の台地に幕営した。隊員たちは、「天上のキャンプ地」と名付けた。
幕営地の上の氷河湖越えに、P6020(L8)が望まれた。
8月24日:6:50/右股BC - 8:00/第一氷河舌端 - 9:20/第一氷河最高到達点(5245m,
N33-07-18.1, E-77-03-06.1) - 12:00/右股BC。
氷河湖を越えて、モレーンを登る。U字型の氷河の左手前に氷壁のP6045(L11)がそそり立ち、氷河の一番奥に鋭峰のP6165(L10)が聳える。U字型の右手には、P6140(L9)の岩峰。どの山も厳しく、簡単には登れそうにもない。
L9, L10, L11ともオープン・ピークに指定されている。氷河の奥にこれ以上入っても同じ景色しか見られないので、5245mで探査を打ち切り、BCに引き返した。夕方に、激しい夕立があった。
右股最奥にある P6020(L8) は既に確認出来ており写真撮影も終わってるので、明日の天候も心配されることもあり、右股での探査をこれで打ち切ることにして、明日は下山することに決意した。
8月25日:7:25/Lenak Nala右股BC − 9:10/Lenak Nala 左股・右股合流点 -
12:00/Lenak Camping Ground 幕営地(4519m, N33-06-50.8, E-77-06-45.7)。
Lenak Nalaの本流は激流となっており、自力での渡渉は困難なので、馬に乗せてもらって渡った。前回宿泊したと同じ場所(ヤク小屋より少し上流)に幕営。標高が、500m程下がったので、なんとなく呼吸も楽な感じ。午後はのんびりと休養し、今後の予定について話しあった。
4.Giabul Nala 探査:
8月26日:7:30/Lenak Nala Camping Ground - 10:20/Giabul Nala 出合 - 12:00/Namkha
Tokpo 対岸(4254m, N33-03-29.9, E-77-07-39.3)。
いよいよ今日からGiabul Nalaに入る日だ。Giabul Nalaは、Lenak Nalaより幅も広く、水量も多くて激流となって勢いよく流れている。Giabul Nalaは支谷も多いので、探査記録の混乱を避ける為に、二つの大きな支谷に私たち独自の仮称をつけた。氷河の最奥部にP6005(G18), P6060(G20)とP6115(G22)の3つの6000m峰を抱える大きな支谷を、
Namkah Tokpoと名付けた。Namkhaはツワン君の息子の名前だ。Tokpoとは、小さな谷のこと。P6078(G14) とP6005(G18)の二つの6000mを抱く谷には、ツワン君の奥さんの名前をとって、Sachi
Tokpoと名付けた。お陰で、以後の隊員間の会話も混乱せずにスムースにいった。
Namkha Tokpoの左岸にP5865(G21)の岩山が聳え、その上流に氷をつけた鋭峰のP5935(G19)が望まれる。Lenak Nalaに較べて、Giabulの方がヤクの放牧が活発なのか、あちこちで草をはんでいるヤクに出くわした。
夕方、対岸に、ヤクの放牧をしている若い娘たちがさっそうと馬に乗っていた。私たちの若いキッチン・ボーイのソナムやプンツオクは興奮して、河を挟んでヤク娘と叫びあっていた。
8月27日:7:10/Namkha Tokpo対岸のCS - 10:30/P5935(G19)の対岸 - 12:20/Giab
ul
Nala BC (4409m, N33-02-41.0, E77-01-23.0)。
先行していたキッチン・スタッフ達は、Namkha Tokpoの対岸の、Giabul Nalaの激流の直ぐ横に、キッチン・テントやダイニング・テントを張っていた。ひとたび激しい夕立が来れば、テントが流される危険が極めて大きい。我々は、3m上にある台地に隊員用テントを設営したが、危ないからと注意しているにも拘わらず、キッチン・スタッフもガイドもテントの位置を変えない。山登りの基本を知らない彼らは、一度危険な目にあって経験しないと解らないのだろうか? 今後とも、厳しく指導する必要ありそうだ。
Giabul Nalaは、BCの少し上流で左股と右股の氷河が合流している。そのT ジャンクションにP5686(G8)の岩峰が聳え、その後ろにP5700(G7)と大きな氷河を抱いたP5754(G6)と思われる大きな山があった。G6と思われる山は、G8に較べ明らかに高く、標高は6000mを越えた山と思われ理解に苦しんだ。
伊藤・岡部の両氏が合流点近くまで偵察に行ってくれた。BCより500m程上流に滝があり、激流となって流れているが、何とか岩の間を通り抜けることが可能とのこと。その上は、谷は広くなり、広い平な河原となるらしい。
8月28日:7:20/Giabul Nala BC - 9:00/氷河の舌端 - 11:30/Giabul Nala BC帰着。
滝を越えて広い平な河原を暫く行くと、氷河の舌端手前は大きな岩が重なりあっている。今日は、P6014(G11)とP6078(G14)の6000m未踏峰が2山ある左股氷河の探査が目的だ。
河を渡れば、谷の中央のモレーンを登って左股氷河に出られそうだが、未だ水量は多く、右岸への渡渉は困難。氷河の舌端の右手(左岸)のガレ場を登り、少し左にトラバースすれば、渡渉をせずに対岸に出られそう。ガレ場を登って偵察をするも、落石が危ないから断念してくれとのガイドと馬方の意見があり、左股探査をあきらめることにした。天候も悪化しそうだし、止むをえまい。
8月29日:休養日。天候悪く、終日曇り時々小雨。
午後、馬方とキッチン・スタッフ達が、激流が逆巻く滝の所に、石の橋を造ってくれた。馬は渡れないが、我々隊員用の橋と言う。玄人はだしの、土木工事だ。
8月30日:7:10/Giabul Nala BC - 7:40/石の橋 - 7:50/Sachi Tokpo出合 - 9:45/4595m
(G15とG16が正面に見える)- 12:20/引っ返し地点(4746m、N33-01.16.0
、 E77-01-21.0) - 15:45/Sachi Tokpo出合 - 17:45/Grazing Ground CS (4320m, N33-02-40.8, E77-03-42.9)。
この日は、隊員のみで支谷のSachi Tokpo を登り、P6078(G14)の東面とP6005(G18)の西面を探査する計画。ガイド、キッチン・スタッフ達は、地図上のGrazing Ground(放牧地)まで馬で荷物を運び、テントを設営して我々を待つこととした。
滝の箇所にかけられた橋は、万一バランスを崩してスリップすると激流に墜落する危険性があるので、ロープを使って安全に渡橋。
Sachi Tokpoは、ガラガラの石の重なったモレーンの小山が、延々とつづく。正面にP5720(G15)とP5895(G16)が見えてきたが、突き当たりのT
ジャンクションはなかなか近づかない。T ジャンクションまで行かないと、右奥にあるP6078(G14)や左奥にあるP6005(G18)は見えないが、時間も12時を過ぎてしまったので、誠に残念ながら、それ以上の登行は断念することにした。
出合付近のSachi Tokpo の流れも結構強い。安全をきして、ロープを使って、スタカットで渡渉。帰りが遅い私たちを心配して、ガイドのツワン君が対岸まで迎にきてくれていた。Giabul Nalaのだだっ広い河原を延々と歩く。数多くのヤク達が草をはむのを眺めながら、口数も少なく、黙々と歩くのみ。70歳を過ぎた我々には、10時間を超える行動は結構こたえた。
8月31日:7:20/Giabul Nala Grazing Ground CS - 10:45/Namkah Tokpo 出合上流のヤク 小屋 - 11:30/Namkha
Tokpo出合CS(4270m, N33-03-09.6, E-77-07-15.7)。
Namkha Tokpoの少し手前のヤク小屋に立ち寄り、ヨーグルとを御馳走になった。ヤクの放牧は女性の仕事になっているらしく、村で共同管理をやっているらしい。各家庭より、一人づつ計6人の女性でヤクの世話をすることになっており、6日間で次のチームに交代するシステムとの事。ザンスカールのヤク放牧は、どの村もほぼ同じシステムをとっているらしい。「女性が仕事をしている間、男達はロキシーを飲んで、ギャンブルばかりなの?」と問いかけると、おばさん達はケラケラと笑っていた。ヤク飼いのおばさん達によれば、Namkha
Tokpoのかなり上までヤクを放牧しており、谷の左側(右岸)に明瞭な道がついているとの事。
ツアンとBig TenzingにNamkha Tokpoの奥の二股まで登り、BC適地を見つけてくるように昨日より依頼していたが、彼らが出かけたのは午後3時であった。幕営地帰着は午後6時頃。やる気があるのかないのか、彼らの行動は不可解。
9月1日:7:20/Namkha Tokpo CS - 7:50/馬で渡渉完了 - 11:30/Namkha Tokpo BC
(4620m, N33-01-25.2, E77-07-02.8)。13:35/BC - 14:15/二つ目の二股(4750m,
N33-01-01.0, E77-06-53.1) - 14:40/BC。
Giabul Nalaへの落ち口に近いNamkha Tokpoの水流は早朝でもかなり激しく、馬で渡河した。Namkha Tokpoの右岸は、ヤク飼いの女性が言っていたとおり、しっかりしたヤクや馬の踏み跡がついていて、非常に歩きやすい。後ろから追いかけてきた馬子達は、右岸に注ぐ一つ目の小さな支谷との出合いを過ぎて直ぐの広場で、左岸に渡り、荷物を降ろし始めた。
Namkha Tokpoの最奥にある6000m峰3山を探査するには、二つ目の支谷との出合い、P5840(G25) の近くにBCを設置する予定だと、地図とGoogle
Earthの画像を見せて、何度もツワン君に説明していたのに、昨日の偵察ではここで止めたようだ。ここより上には、馬に食べさす草がないと馬方に言われて妥協してしまった模様。
私に叱られて、ツワン君はあわてて上部へ偵察にでかけたが、「これ以上登っても、数張りのテントを張る場所しかありません」と幕営地を移動する意思はなさそう。もう議論する気もなくなり、私もあきらめて妥協した。
馬の餌のために、計画を左右されるのは大きな問題であり、ポーター起用であれば、かかることは起こり得ない。私たちは馬に草を食べさせて放牧する為に、馬を雇っているのではないのだ。登山に必要な荷物を運ばせるのが本来の目的。今後は、馬方が馬の餌になる草地で幕営したいのであれば、彼らのテントだけをそこで張らせ、私たち隊員の荷物は予定通りの地点まで荷揚げさせて計画通り推進すべきことを痛感した。馬方の言いなりになっていたのでは、登山活動に支障がおこり、取り返しのつかない失敗をまねく恐れが強い。リーダーとして、毅然とした態度で対処すべきと、深く反省。
午後、Namkha Tokpo BC より、左岸を登って上部の偵察に出かけた。P5840(G25)の下から右岸に流れ落ちる支谷の出合付近に、それほど大きくはないが十分幕営出来るテント地があった。馬に食べさす草地はないが、馬は下流に放牧すればよいことだ。釈然としない1日だった。
9月2日:6:40/Namkha Tokpo BC - 7:20/二つ目の支谷との合流点(4750m, N33-01-01.0,
E77-06-53.1) - 12:00/P6115(G22)直下(5075m, N32-59-30.2, E77-05.18.6) -16:00/BC。
Namkha Tokpoにある6000m峰三山を確認する日だ。幾重にも重なるモレーンを登ったり降りたり。 P5840(G25)の近くまできて、ようやくT
ジャンクションにあるP6115(G22)の圧倒的な岩峰が目に入る。しかし、ここからが遠く、歩けども歩けども、T ジャンクションには行きつかない。そこまで行かないと、P6060(G20)も右股氷河の最奥のP6005(G18)は見えない。今回の未踏峰探険旅行の最後の仕上げとなるので、疲れた身体に鞭うって、P6115(G22)を目指して力をしぼる。やっとP6115(G22)の真下に着いた。右股氷河の奥に、P6005(G18)の雪のついていない岩峰が望め、下流を振りかえるとP6070(G20)が見えて、大感激。
Namkha Tokpoの三山を含めて、今回の未踏峰探査で12座の6000m峰を確認したことになる。 その中、Open Peakに指定された山は、L8, L9, L10, L11, L13, L14, L15, G18, G20の9座である。全員で、堅い握手をして今回の遠征の成功を喜びあった。
くだり始めたが、疲れたのか、モレーンの浮き石に足を取られて、ヨタヨタしながらBCに午後4時に帰着。
9月3日:7:08/Namkha Tokpo BC - 7:25/渡渉完了 - 9:40/Namkha Tokpo出合 -
13:00/Tangso (4133m, N33-04-37.3, E77-11-25.8)。
Namkha Tokpoの出合から下流には、放牧されている沢山のヤクがあちこちで草をはんでいた。Tangsoは、平坦な広い台地の大変明るい高原の村だ。Giabul
Nalaの左岸の山が幻想的な色をした岩山で、Tangso村の背景として、素晴らしい趣をかもしている。Tangsoは14軒、人口約60人とのこと。民家の近くの草地に、幕営させて貰った。ロープで
つながれたヤクが、テントのすぐ近くにいて、実にのどかな風景だ。
夕方、Tangsoの学校を訪問。5〜18歳の生徒が合計41人通っており、先生6人で対応している由。
5.シンゴ・ラ越えで、ツオー・カル経由パダムへ:
9月4日:Tangsoで、一日のんびりと休養。
9月5日:7:00/Tangso - 7:35/Tsarap Valleyとの出合 - 14:20/ゴンボランジャン直下。
馬方のBig Tenzingの提案で、Lakang までは距離があるから、もっと近いFadel泊まりにしようと計画を変更したが、彼は我々を追い越し、先行するやどんどん先へ進み、結局Lakangの手前のゴンボランジャン迄歩かされるはめになった。ゴンボランジャンの近くのヤク小屋の住人に子馬を届けてくれと頼まれたので、彼が勝手に幕営地を変更し、我々を引っ張り廻したことが判明。身勝手な彼の行動は、本当に理解に苦しむ。
9月6日:7:00./ゴンボランジャン直下 - 9:40/Lakang Sumdo - 11:00/峠。15:00まで峠で
馬まち - 15:30/Singla BC (4703m, N32-55-40.6, E77-13-15.7)。
Lakang Sumudoの上の峠に上がるも、荷物を積んだ馬は全く現れず。先へ進んでも、テントや食料がなければ困ったことになるので、避難小屋のある峠で待つことにした。
馬たちが峠にやってきたのは、午後3時で4時間待たされた。馬が下流ヘ逃げてしまい、連れ戻すのに時間がかかったとのBig Tenzingの言い訳。今回の遠征では、「馬方と馬」に引っ張り廻されどうしだ。
9月7日:6:50/Singola BC - 9:15/Singola - 16:20/Ramjyak (4395m, N32-49-48.1, E77-08.46.5) 。
Singolaへの登り口で、単独のドイツ人が道のついていない氷河の中へ、ノコノコと歩いて行った。ガイドのツワン君が「道は上についている」と大声で伝えたら、急斜面のガラ場を登って道に上がってきた。Singola峠までは私たちの後を歩いていたが、峠からは「お先に」と一人で下って行った。Ramjyakのキャンプ場で私たちが夕食を済ませた午後6時過ぎになって、「お客が降りて来ない」とドイツ人の馬方兼ガイドが騒ぎ出した。慌てた彼が探しに出かけて30分ほどすると、単独のドイツ人をつれて降りて来た。「頭が痛くて、吐いて寝ていた。」との事。どうも高度障害で動けなくなったようだ。奇妙な単独登山者は本当にこわい。
9月8日:6:30/Ramjyak - 9:30/Zanskar Sumdo - 12:30/Tukpachan。
Ramjyakのキャンプ地は、プラスチック袋、缶等が散らばり、目をおおいたくなるほどの汚さ。余りにもひどいので、隊員、ガイド、キッチン・スタッフ、馬方の全員11名で朝食後清掃することにした。約30分ほどで、キャンプ地のゴミを全て拾い集めた。キッチン・スタッフが、高さ1m程、直径2m程のゴミ捨て場を石で作り上げ、拾い集めたゴミはそこへ入れて焼却することにした。
翌日は、Palamoの手前のTukpachanで幕営し、車待ちで1日休養した。
9月10日:7:08/Tukpachan - 10:50/Sarchu - 16:40/Tso Kar.Tukpachanの幕営地へ、昨夜車が迎えにやってきた。Tso
Kar経由で、Lehまで車で2日の旅だ。
2007年にSingla越えをしたときは、車道はPalamoの下までしか出来ていなかったが、今はZanskar Sumdoの対岸までブルドーザが入っいて、Singla峠越えの道路工事を進めているのには驚いた。清い清流が流れる美しい草地のPalamoは今は跡形もなく、トラック、ブルドーザが何台も駐車し、土木工事の小屋やテント、売店などが並ぶ工事現場に変わっていた。
Rangokから、広大な高原が延々とつづく。途中から東に方向を変えて、Tso Karのキャンプ場についた。
9月11日:8:50/Tso Kar - 10:15/Taklang La(5260m) - 12:30/Upshi - 14:30/Leh.。
キャンプ場から湖は随分と離れているので、車で湖畔まで移動。Tso Karは塩湖で、「白い湖」の意。10年前までは、湖の大きさは今より遙かに大きかった由。
マナリ/レー間の国道に戻り、果てしなく広い高原を走る。Chulozangと言われるこのあたりの高原は、パシミアの原材料となる特殊なgoatsが、あちこち群れをなして放牧されている。一群れ500~1,000等以上と思われる群れが、走る車窓からあちこちに目に入る。
Taklang Laを越えて、Gya近くになると山容がいっぺんする。赤茶けた色の衝立か土塀を立てたような尾根が山の上から下の方につづいていたり,先鋭芸術家がデザインしたような奇抜な模様の山が出てきたり、まるで幻想の世界に迷い込んだ感じだ。
1月振りにレーにもどり、ツワン君の奥さんと息子のナムカ君に再会。二人とも元気な様子で、ツワン君も嬉しそう。
12日はレーでお土産を買ったり、ブラブラ散策したりして、13日の早朝便にてデリーに向かい、9月14日の夜の便でインドを去り、15日に日本に帰国した。
レーを出てレーに戻るまでの丸34日間の山旅であったが、Lenak NalaやGiabul Nalaに入っている時は、地元のヤク飼いの女性達以外には全く出あわず、私たちだけの静かな山旅を満喫することが出来た。全員体調もよく、誰一人高度障害に煩わされることもなく、数多くの知られざる未踏峰を発見することが出来(6000m以上の峰だけで、12座)、期待以上の成果を上げることが出来た。
私たちの年齢のことを考え、余裕のある行程にして、且つ休養日と予備日を十分にみた慎重な計画のお陰であろう。叉、毎日、つぎつぎと工夫して美味な料理を作ってくれたコックのチョンジョルと、忙しくこまめに立ち働くキッチン・ボーイのソナムとプンソの協力も大きな貢献であった。馬方の勝手でルーズな行動に振りまわされたガイドのツワン君は、かなり苦労したようだが、今後の遠征の為には大きな勉強になったであろう。
素晴らしい隊員仲間とスタッフ達に支えられて、実り多い未踏峰探険を達成出来たことに、深く感謝したい。