エクアドル最高峰チンボラソ(6,310m)登頂記

(1996年8月22日ー9月3日)

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ガスが切れて、夕日に輝くチンボラソが姿を現した。

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オレンジ色に輝くチンボラソは神々しいまでに美しい。実に素晴らしい山だ。
ガイドのマルコ・クルツがルートを説明してくれる。「テイルマン氷河の左側の岩壁の下のガラ場を左の方に巻くように登り、雪面に取り付くんだ。岩壁の左端の急傾斜の雪面を登って岩壁の上に出て、プラトーをテイルマン氷河の方に右に大きくトラバースするんだよ。撤退したドイツ隊のトレースが見えるだろう。雪面の中の岩の下あたりから、今度は左の方に西稜の岩峰を目指して登るんだ。西稜のコルに着いたら後は6,267mのチンボラソ西峰へひたすら西稜をあるくのみ。西峰から最高峰の南峰ウインパー峰6,310mは30分程だ。」つい先程までは濃いガスが垂れ込め、テイルマン氷河の末端の急傾斜の青氷しか見えず、あんな恐ろしいところを僕の技術で登れるだろうかと不安であった。今、チンボラッソの全容がつかめ、マルコのルート説明を聞いて「よっしゃ。この山なら登れるぞ。」との自信が湧いて来た。

チンボラソは、赤道直下にあるエクアドルの最高峰で6,310m。
地球の中心から計るとエベレストよりも高い(遠い)と言うことで有名。
1880年1月4日に、マッターホルンに初登頂したエドワード・ウインパーとその好敵手だったイタリア人ガイドのジャン・アントワーヌ・カレルの二人により初登頂された。日本人としては、1961年6月ー9月にエクアドル・アンデスの遠征登山に出かけた早稲田大学探検部が、非常に苦労して2回目のアタックで9月21日に一般ルートから登頂したのが初めてのチンボラソ登山。
我々は、1996年8月22日ー9月3日の期間で、日本山岳会京都支部の10周年記念登山として、酒井敏明隊長以下12人のメンバーで登りに出かけた。隊員の平均年齢は55.2歳の中高年登山隊。

8月22日に成田よりシアトルに飛び、シアトル経由マイアミに同日の21時5分に到着。
翌8月23日の午後にマイアミを発ち、エクアドルの首都キトに19時55分着。
ガイドが差し向けてくれた40人乗りのバスでアンバサダー・ホテルにチェックイン。キトは標高2,800m。海辺のマイアミから飛んで来たので、ビールの酔いが早かった。

8月24日は高度順化の為にラック・ピチンチャ峰4,714mに登る。3,900mの車止めからは樹木のない草原の山となり、4,300-4,500mから上は岩峰の山だ。南アフリカのドラッケンズ・バーグ山脈に似た感じ。海抜ゼロのマイアミから一挙に高度が上がり、ダイアモックスを飲んだと云うものの、やはりしんどい。伊藤さんが4,100mでダウン。腹痛と本人は云っているが、高度障害ではなかろうか。車止めまで一人でゆっくりと帰ると云う伊藤氏を残し、11人は登り続ける。ピーク直下は約200mの急傾斜のザラ場と前剣の様なチョットした岩場。13時20分頂上着。高度順化の為40分程頂上に止まり下山。
ラ・ロンダと言うしゃれたレストランでインデイオのフォルクローレの生演奏を聞きながら食事をするも、皆余り食欲なし。

8月25日。高度順化の為にコトパクシ(5,897m)国立公園の方に移動。4,500mの車止めから4,900mの氷河の舌端まで歩き、その日は3,850mのコトパクシのカルデラ高原のキャンプ場にテントを張って宿泊。月夜にコトパクシが浮かび上がっていた。

8月26日はテント地を6時15分に出発して、ルミナオイ4,712mに高度順化のハイキング。高山植物の咲き乱れる高原状の尾根を歩き、ケーブを見学したりとのんびり歩き、4,400mあたりからテント場に引き返して、午後はリオバンバの町にバスで移動した。
ガイドのマルコの経営する瀟洒なホテル、アブラス・プングに泊まる。

8月27日9時にホテルをバスで出発し、マルコの所有地のチンボラソ・ベースキャンプに10時半着。高度約4,000m.。夕方に高度順化の為に、バスに1時間程乗ってカレルの小屋のある4,800mの車止めまで行き、標高5,000mの所にあるウインパー小屋ヘ歩いて登る。小屋の左手の5,100mの丘に登り、チンボラソのルートを眺めようとするが、ガスが濃くて何も見えず。諦めて下山し、バスに乗っており始めたら突然雲が切れて、チンボラソが全容を現した。夕陽に輝くチンボラソを見て、これなら登れるとの強い確信を得た。

8月28日。いよいよ今夜に、登頂出発だ。午前中は、ベースキャンプにて個人装備の点検。登りだしたら時間との勝負、ロスタイムは無くしたいとガイドのマルコよりアイゼン、ハーネスの点検を徹底するように強い指示を受ける。昼食後、催眠薬のハルシオンを飲んで各自テントで就寝。20時に夕食。21時にバスに乗りカレルの小屋に22時着。
ガレ道を1時間程登り、5,000mのカレルの小屋へ。ウインパー小屋にて最後の用足しをすます。河村皆子さんは元々ウインパー小屋までと云っておられたが、酒井隊長も風邪と高度順化不十分の為、残念ながらウインパー小屋に残られる事になった。
隊員10人とマルコ・クルツを頭とするガイド5人、合計15人がウインパー小屋を出発。ガイド2人は、ロープ、アイス・ハーケン、スノー・バーを担いでルート工作の為に先行する。
ウインパー小屋からガラ場を登り、テイルマン氷河の左手の岩壁目指して歩く。懸垂氷河の下の岩壁を左に巻くようにして雪面にでたのが、丁度夜中の12時だった。
アイゼンを着け、スキー・ストックを岩陰(5,200m)にデポする。一番最後に歩いていた井上潤さんの調子が悪いと云う。とてもこれ以上無理との事で、井上さんがリタイアー。秋野さんも体力に自信がないので、皆に迷惑掛けたくないと井上さんと降りられる事になった。
残るメンバーば8人。懸垂氷河の30-35度の凍りついて雪面をアイゼンを効かせて登り始めて直ぐに、今度は山本さんのアイゼンがはずれた。古いコフラックのプラ・ブーツにオーバ・シューズを履いて、僕が以前使っていた、前が引っかけ式のワンタッチ・アイゼンを使っていたが、どうも前のワッパがきちんとはまらないようだ。「皆に迷惑掛けたらあかんから、僕は諦めます」と即刻決断する山本氏。トライアスロンをやっていて最も体力のある山本氏なのに、僕の古い装備の為に彼の登頂の機会を奪ってしまい、本当に申し訳けなく思う。
懸垂氷河の上のプラトーに上がり、棚状になったプラトーを右に大きくトラバース。右手は岩壁でスパット切れているが、プラトーの傾斜は余りきつくなく、アイゼンもよく効き快調に歩く。プラトーの終わる手前より、西稜の岩壁を目指して左に登る。
傾斜が40−50度となり、40mのロープ2本が逆くの字に固定してある。固定ロープの手前よりアンザイレン。マルコ、池田悦子さん、朝倉英子さんと阪本が同じロープ。伊藤さん、能田さん、田村さん、宗光さんとガイド2人がもう一つのザイル・パーテイ。
固定ロープにカラビナを通して、急な雪壁を慎重に登る。
アイゼンがよく効き、僕のペースは極めて快調。西稜のコルに1時35分着。後ろのパーテイの田村氏のアイゼンがはずれたようだ。能田氏が修理道具を出して田村氏に貸したようだが、アイゼンのアジャストに手間取っている。30分位時間のロスをしただろうか。
「昨日、あれだけ装備の点検をきちんとやってくれと頼んだのに・・・。こんな調子だととても頂上に登れないし、下山の際の雪崩の危険も大きい。後ろのパーテイはロセンド達がついているから、急ごう」と、マルコは怒っている。
一歩毎にピッケルを雪面に差込み、リズムを取りながら登る。まだまだ、自分には体力が残っていそうな気がする。2番目の固定ロープも難なく越えた。マルコは、休息を取らないでどんどん歩く。もう、西稜もかなり登ったように思うが、どのくらい時間がたったのか、時計を見るのも面倒臭くなってくる。
池田さんのペースがガクンと落ちて来た。「悦チャン頑張れ」と声を掛けるが、どうも限界近くまできたようだ。後ろのパーテイも追いついてきて、「これ以上突っ込ませたら、危ないですよ」と、宗光さんが声を掛けてきた。「私、ここで降ります」と池田さんが決心する。標高5,900m。4時30分、ガイドの一人が池田さんに付き添って下って行く。池田さんは、残念だろうなあ・・・。
3番目のフィックス・ロープを使い、急な雪面を登る。雪が腐ると嫌な所だ。伊藤さんのペースも、かなり落ちてきた。「歩き出してからまともに休んでまへんで。こんな調子で登っていたらシャリバテになりまっせ。プッシュ・プッシュもええけど、チョット休むようにマルコに言うてえなあ」と、何時も本音で話する能田氏。
「マルコ。ウイア・ハングリー。フィフテイーン・ミニュッツ・レスト、プリーズ」と僕。テルモスの紅茶を飲み、エネルゲンのジェリーを口に入れる。腰を下ろしたばかり思っていたが、アットいう間に15分が経ったのであろう、マルコが出発を促し、又頑張って歩き始めた。西峰のピークが目の前に近づく。前のパーテイの伊藤氏のペースが更に遅くなる。「ハリー・アップ」とマルコが前のガイドのロセンドに発破を掛けるが、二番目の伊藤さんがブレーキになってロセンドも動けない。痺れを切らし、マルコが前のロセンドのパーテイを抜きにかかる。前のパーテイの横にあらたにトレースをラッセルしてマルコはがむしゃらに登る。朝倉さんがそれに必死について行く。ロープに引っ張られるようにして、三番目の僕も登る。本当にしんどい。風が強くなり、地吹雪のような雪煙が舞う。
ロセンド、伊藤、能田、田村、宗光のパーテイをゴボウ抜きにして急傾斜の雪面を進む。息がゼイゼイと、今にも倒れそう。朝倉さんは、本当に強い。もう駄目かと、何度も思う。僕の古い装備で撤退した山本さんの顔が浮かぶ。彼の為にも、是非ピークに登りたい。それにもまして、自分自身の為にも、チョンボラソの頂上に立ちたいという思いが、次の一歩の原動力となる。
記録に残るような山登りをはしていないけど、この数年間は本当によく山に通った。1994年は81日、1995年は61日、そして今年の1996年はこの海外登山を入れずに49日。よく嫁さんが、山に行かせてくれたものと、妻を思い出す。
前を歩く朝倉さんに、又ロープで引っ張られる。「頑張って歩かなあかん」と気合いを入れ直す。でも、しんどい・・・。眼鏡が凍って何も見えなくなる。「マルコ。チョット待って」と眼鏡を外してハンカチでふくが、直ぐに汗で曇り、それが凍って使いものにならない。強風の中、マルコと朝倉さんがイライラして待っている。眼鏡を外して歩く事にする。雪目が恐いが、止むを得ない。
何時しか、スペイン隊の3人が我々に追いついてきた。「後20分で頂上だから、頑張って」とスペイン隊のガイドが朝倉さんに声を掛けてくれる。西峰を巻いて、最高峰のウインパー峰に向けて必死に歩く。クレパスが2−3カ所空いており、慎重に飛び越える。マルコが突然立ち止まり、我々を振り返る。「ここが、ピークだ。おめでとう」とマルコは朝倉さんを抱きかかえる。「マルコ。有り難う」と握手。目頭が何となく濡れた。

8月29日午前8時20分、遂にチンボラソ6,310mに登頂。

カレルの小屋から10時間20分。強風の中にツエルトをかぶり、朝倉さんの肩を抱くようにして、二人で紅茶を飲み、サラミを一口食べる。昨夜から殆ど食べていないが、余り食欲は無い。伊藤さん達のパーテイが10−15分遅れて到着。吹雪の中で、慌ただしく記念写真を撮り、マルコにせかされるように下山。
ツエルトの中で眼鏡をふいたが、直ぐ曇りがち。でも、雪目が怖いので、眼鏡にサングラスをセットして、下山する。
かなり急傾斜のはずなのだが、眼鏡が曇っているのか、濃いガスで遠方が見えない為か、余り怖くない。
「アイゼンはフラットに、フラットに」と自分に言い聞かせて、一歩づづ慎重に下る。
登りとは逆に、僕がトップ、2番目が朝倉さん、ラストがマルコの順。一番上の固定ロープを通過し、西稜を黙々と下る。朝倉さんもさすがに疲れてきたのか、時々尻餅をつき座り込んでしまう。その都度、僕も立ち止まり、マルコと二人で彼女を励ます。
二番目のフィックスの下で伊藤パーテイを待つが、なかなか降りて来ない。30分待っても降りてこないので、雪崩の危険があるからと、マルコは我々を先行さす。
しばらく歩くと、急に僕の視野が無くなり、目の前にカーテンを掛けたように真っ白になってしまった。
足下のステップしか見えず、ほんの2−3m先のトレースも見えない。「グド。ルートはもっと右」「何処へ行くのや。ルートは真っ直ぐについているやないか」とマルコに怒鳴られるが、サッパリ見えない。
エベレストに還暦登山をされた宮原さんが南峰で視力障害にあわれたのと、どうも同じような現象のようだ。
3番目のフィックス・ロープを通過してからは更にひどくなり、まったくトップで歩けず、マルコにトップを代わって貰った。
プラトーを下る時には目の前が真っ白で全く見えなかった目も、懸垂氷河の横の急な雪面を降りてガラ場を歩く頃より、徐々に薄ぼんやりと見えるようになってきた。
山本氏がストックをデポした場所まで迎えにきてくれていた。胸が熱くなる。「三平さん登ってきたで・・・」と堅い握手。
ザイルをとき、疲れた足を引きずっての下山。
ウインパー小屋からは全く疲労困憊のていで、14時30分に車止めに帰着した。
迎えてくれる酒井隊長の手を握り「有り難う御座いました。お陰で登ってきました」と報告。
嬉しさの余り、目が潤んでしまった。後の伊藤パーテイも三々五々、30−40遅れで全員無事下山した。

マルコによると、昨年は我々が登ったのと同じルートで、他のガイドが案内した登山者が11人雪崩で死亡したとの事。
ほんの、数日前は、ドイツ隊とフランス隊が雪質悪く西稜の途中で撤退。
参加隊員12人中6人が、無事故で登頂出来た我々は、本当に幸運であったと思う。長期間の休暇を取れない我々サラリーマン登山者として、短期間での会心の海外登山であった。

「隊長」:酒井敏明、「隊員」:井上潤、田村和彦、朝倉英子、秋野子弦、河村皆子、
     伊藤寿男、阪本公一、能田成、山本武久、西躰宗光、池田悦子