G 「南ア(ヨハネスブルグ)で考えたこと」

(高橋夫妻への手紙。1988年)



心のこもったお便り有難うございました。高橋様御夫妻が聖書とキリスト教を心の支えとして人生を送っておられること、本当に素晴らしいものと存じます。
お手紙を拝読し、同封されたキリスト教に関する本をパラパラとめくっていますと、30年程前の昔を思い出しました。


大学時代に知りあった女性で、非常に理知的で、しかも心のやさしい女性でした。二人で音楽会や、京都・奈良の古寺や庭園を見て廻ったり、郊外のハイキングに出かけたりしました。二人共読書が好きで、トルストイの「復活」、カフカの「変身」の読書感を話しあったり、二人でモームの「月と6ペンス」を原書で読んだりしました。又、彼女の好きだった「赤毛のアン」とか「レベッカ」のような少女趣味的な本や、志賀直哉の「城の崎にて」とか川端康成の「雪国」や芥川竜之介の「小僧の神様」のような真面目な本から、当時流行った「悪徳の栄え」等のようないささかダーテイなものまで回し読みをしたものでした。
私の大学時代は、「炎」という歌声喫茶でロシア民謡を歌ったり、百万辺のランブルとか木屋町四条の名曲喫茶にクラッシック音楽を聴きに行ったりする時代でしたから、今から思い出すと、世の中も変わったものです。
娘達には、乱読でも良いから幅広く本を読むようにと、私はよく言うのですが、どうも本よりも他のことをする方が、楽しいようです。特に下の娘は、本といえば赤川次郎ばかりで、「お父さんの読んでいるような本は、頭が痛うてかなんわ。」と言っています。
私が若い時は、そんな時代でしたから、読書が若者の一つの楽しみでもあったのでしょう。ある日、二人で山科の一灯園に出かけました。「出家とその弟子」を書いた倉田百三も一時住んでいた園で、奉仕と愛をモットーとした原始共存的な生活している団体です。その時、彼女が「この本を読んで御覧になったら ・・・」と貸してくれたのが聖書でした。
彼女は非常に熱心なプロテスタントということは以前から知っていましたが、キリスト教について彼女が語ったのは、その時が始めてでした。彼女と別れて、家に帰ってから聖書を読み始めましたが、私にはどうしてもなじめないというか、ピンと来ない日が続きました。
小学校1−2年生の時、お向かいの樋口さんという家のおじいさんが烏丸車庫前の教会の牧師さんで、その孫の恵ちゃんという4歳ほど年上の女の子に連れられて、近所の悪ガキどもと一緒に日曜ごとに教会に出かけたことがありました。キリストさんとかマリアさんの絵を貰うのが楽しみで、退屈な牧師さんのお話を聞いたものでした。
当時、私の父は未だ戦争から戻って来ていませんでした。父が満州からソ連に抑留され、母と妹と私は祖父母の家に身を寄せていました。母が父の無事と帰国を祈るため、誰から聞いたのか教えてもらったのか知りませんが、毎夜鴨川の堤に出かけては草の上に座って祈っていました。母が祈っていたのは、仏教でもキリスト教でもなかったようです。
父の無事を祈るというより、自分の今の苦しさから解脱しようとする心の祈りではなかっただろうかと思われます。ある寒い冬の夜に、母と共に出かけました。底冷えする京都の冬は寒く、更に鴨川を吹き抜ける川風が、身を切るような冷たさでした。一心に、一言の言葉もださず祈っている母の姿を見て、心を打たれる思いがしたのを憶えています。
母と鴨川へ出かけて以来、私は恵ちゃんのおじいちゃんの教会に行くのはやめてしまいました。幼い時ですから、そんな深い考えがあったはずはありませんが、教会とか聖書よりも、母のわれを忘れて祈る姿の方が、何か私の心を打つものがあったからでしょう。えらい話が飛んでしまいましたが・・・。その初恋の女性にその次にあった時、聖書についての感想を求められました。「感想いうたかて・・・。はっきり言うて、僕にはよう解らへんは・・・。」 と返事すると、「そう、私が信じているものを、貴方は理解しようとしてくれないのね」と彼女は淋しそうな顔をして言いました。
その後、彼女から何度か、聖書についてキリスト教についての手紙を貰いました。彼女は本当に素晴らしい女性でしたし、大学を卒業したら結婚したいと思っていました。彼女も多分そうではなかったかと、今でも思っていますが・・・。
キリスト教は、その頃の私には、どうしてももう一つピンと感ずるものがありませんでした。当時は、西田幾太郎先生とか鈴木大拙さんの本を読んだりして、むしろ禅の方に心が引かれる時期でした。勿論、私自身は宗教と言えるようなものは持っていませんでしたが、聖書よりは禅の本の方が、何か心に通じるものがありました。
彼女が熱心なプロテスタントであっても、私には何の支障もありません。何か一つの事に心を没頭出来る彼女は素晴らしいし、そんな彼女と結婚することは、私にとって問題があろう筈もありません。でも、私の心を彼女が信じるものに合わせろといわれると話は別です。人間一人一人、それぞれの心をもっており、それぞれの人生があります。お互いの考え方、生き方を尊重し認め合ってゆくことによって、夫婦、家族、社会というものが成立しうるのではなかろうかと思います。
かような事を彼女に手紙を書いたり、修学院の道を二人で歩きながら、ポツリポツリと話したり・・・。
それから半年ほどして「貴方は、私と違う人生を歩かれる方と存じます。」「何度かは、一緒に生活をと思うほど愛してはおりましたが、このまま二人が一緒になってもお互い不幸になるだけではなかろうかと思います。どうかお許し下さい。お元気で、お幸せな人生をお送り下さいませ。」という趣旨の手紙を最後に、私の初恋の彼女は去ってゆきました。キリスト教と無神論者、仏教と回教、白人と黒人、宗教や人種が違っても、どんな人達の間でも愛は存在するし、結婚もよいのではないか、友達であってもよいのではないかと私は思っています。
お互い愛しあっていただけに(私だけが、そう思っていたのかも知れませんが・・・)、彼女とは非常に淋しい、且つ後味の悪い別れでした(失恋とは、そんなものかも・・・)。

今の家内と結婚する前に、この初恋の女性の事を話ししました。
「アラ、そう。私は彼女と違うから大丈夫よ。そのかわり私の好きなピアノは一生やらせてよ。貴方が山登りをしようが、金光教にころうが私は一切干渉しませんから。」と、お互いの生き方、考え方を尊重しあって、二人の人生を送ろうとの、契約結婚に入った次第です。
自分の人生で、何かに没頭出来ると言うことは、素晴らしい事と思います。
家内がジャズピアノを自分の伴侶としている姿を見ていると、本当にいきいきとしており、立派な生き方と思いますし、それが彼女の心の支えであり、苦難を乗り越えられる力の泉ではなかろうかと思っております。
宗教であれ、芸術であれ、スポーツであれ、何でもよいと思います。自分の人生を通じて、自分の心を打ち込めるようなもの、心の支えとなるような何かを見つけ出すようにして、人生を生きてゆくように心がけて欲しいと、先日も私の娘達二人に手紙を出しました。

昨年末、父が亡くなり「拈華院照空誠心居士」という戒名を、養福寺の住職から戴きました。拈華という意味が解りませんでしたので、住職にお尋ねしたところ「仏教の拈華微笑と言う言葉からでているのですよ」「お釈迦さんが、ラジギールの山でお説法をされた時、最後に指で蓮の花を捻って聴衆の方を眺めました。聴衆は、何故お釈迦さんが蓮の花を捻ったのか理解出来ませんでしたが、弟子の一人の摩訶迦葉だけがお釈迦さんの真意を悟って微笑したと言われており、禅宗では以心伝心の意味に用いています」との事。
住職より教えて貰った「拈華微笑」という言葉が、父の葬儀を終えて南アへ帰任する際に飛行機の中で読もうと書店で買った二冊の本、開高健の「開口閉口」と、豊田穣の「割腹」に出ていたのには本当に驚きました。
又、私が、父の危篤の報を受け、ヨハネスブルグから台北まで乗った飛行機が、翌日とんぼ返りで台北からヨハネスブルグに帰る時に、モーリシャス沖で墜落するという大事故がありました。初七日の後で、住職から拈華微笑の説明を聞いた時、或る親戚の人が「お父さんが、貴方を助けてくれたのかもしれんよ・・・」と言いました。父の意志が、何処かに働いていたのかも知れません。拈華微笑とは、本当に良い言葉だなあと思っております。

禅は、真理がどんなものであろうと、知的作用や体系的な学説に訴えず、身をもって体験することを尊びます。 「不立文字(言葉に頼るな)」が禅のモットーであります。
仏教の経典を幾ら読んでも、身をもって体験しないと悟りは生まれてこないと言われています。言葉は事象を代表するものであって、実体そのものではないからです。
禅は、「山や雲の精神」と言われています(だから、私が禅にひかれるのかも知れませんが・・)。山に登るには、地図と磁石が必要です。でも、地図や磁石を持っていても、安全な登山は出来ません。地図を読み、地形を判断し、天候を判断する力が備わっていなければなりません。参考書を読むだけでは、地図の本当の読み方は学べません。山に入って、自分の足で歩き、木々を眺め、雲や風を観察し、自然と一体となるという体験を積み重ねて、初めて紙の上に書かれた地図が実体となって読めてくるものです。
山は立体です。一つの頂きからは幾つもの尾根がでており、又谷も何本か入っています。登る方角により、ルートにより、山は違った山になります。又、季節により、天候により同じ山でも全く違った山になります。
花の咲き乱れる山、風雪の荒れ狂う山。Aという山は一つですが、又、複数の山とも言えます。槍ヶ岳は一つの山ですが、一つの山ではないのです。 禅宗で言う「一即多。多即一」ということです。

山を征服するという人がいますが、山は征服するものではなく、山と自然とに己が一体となってこそ、本当の山登りが存在するものだと、私は考えております。
自然は、美しく且つ厳かで恐ろしいもので、人間よりはるかに偉大です。自然を愛し、自然を畏怖する心があって、初めて自然を知り得、一体になれるものと思います。
山は、登るより撤退する方が難しいものです。自然の力を理解し、己と仲間の力量を判断して安全に徹底する機会をつかむのは、本当に難しい事であり、体得によって初めて理解出来、身につくものです。でも、幾ら経験したからと言って、今日上手く撤退出来たとしても、次の山での安全が保証されるものではありません。次の山では、その時の状況により、又冷静・的確に判断することが要求されます。
山を征服するという言葉は、私は嫌いです。山も、自然も、動物も、人間も征服するものではなはないと思います。愛をもって、そのものと一体となることによって、理解しうるものです。
山登りと禅は、何か同じくするものがあるような気がします。
私は禅宗徒ではありませんが、禅には何故か心がひかれます。
どうしたら自己解脱が出来るのか、なんていう難しいことは、私には解りません。
「心は心にあらざるが故に心なり」「万物の姿は、真如そのものであり、真如は無である」「色即是空、空即是色」等の真の意味と心を、生きている間には解らぬまま、私は死んで行くのかもしれません。
でも、その言葉の意味ではなく、その本来の実体が悟れるようになればいいなあと夢みつつ、私の人生を送ってみたいと思っております。

仏教では、「般若」と「大悲」がその精神と言われています。般若とは超越的な智慧、大悲とは愛のことだそうです。
恐らく、キリスト教もその精神は同じではないのでしょうか?
私は無神論者かもしれませんが、「愛」をもって私の人生を送りたいと考えております。

高橋様御夫妻の御厚意にもそむき、折角戴きました本もパラパラとめくる程度しか読まずに、本当に申し訳ありません。
長々と書きづづけ、失礼しました。でも、日頃考えていたこと、思っている事を、こうして心のおもむくままに書く機会を与えて戴いたこと、本当に嬉しく思っております。
何時までも、高橋様御夫妻とは良き友でありたとい願っておりますので、お気を悪くされないよう、くれぐれもよろしく御願い申し上げます。
御家族の皆さまの、御健康を心よりお祈り致しております。

         阪本公一拝

 「追記」(雑感)
1)私の山の大先輩に今西錦司さんという文化人類学者の草分けの先生がいます。彼は、ダーヴィンより更に進んだ進化論を唱え、「私の進化論」という論文を出しています。科学は何時までも科学であって、実体ではあり得ないと思いますが、進化論という科学も日々進化しつつあるのでしょう。
その今西さんが「アフリカで考えたこと」という随筆を1963年に出しておられます。「多民族国家を救う唯一の道は、アパルトヘイト方式による各民族のカースト化にあるのではなく、じつは各民族間の混血を通して、これを一民族国家にまで、高めるところにある。色の白い黒いは、民族の問題というよりはむしろ人種の問題だろうから、まず混血によって、多民族国家内の人種の違いを消してゆけば、文化的概念である民族の違いの方も、これにともなっておのずから消えてゆくに相違ない」と書いています。
素晴らしい発想とは思いませんか。いろんな国の政治家や宗教家が、南アのアパルトヘイトについていろいろ述べていますが、こういう見解を25年前に堂々と発表する、日本の科学者を先輩に持てたことを大変嬉しく思います。

2)アムンゼンやスコットが、地図の空白地を求めて極地を探検し、ヘデインが中央アジアを歩き、近代の地理学上の探検が始まりました。そして、地理上の未知の、より高い山へとの登山が始まった訳です。
1953年に世界最高峰のエベレストが登られ、今では8,000m峰はおろか7,000m峰の処女峰も数える程しか残されていません。
京大学士山岳会は、パイオニアをモットーとしてきました。8,000m峰は既にすべて登頂されてしまい、7,000m峰の処女峰も後数年でなくなるでしょう。 
「パイオニアとは何か?」
日本の社会人山岳会は、より困難な登山、即ち厳冬期の無酸素・単独エベレスト登山とか、より困難なヒマラヤの氷壁登攀で、人間能力の限界を追求するような究極の登山を通して、近代アルピニズムの中にパイオニア精神を探索してゆくのではなかろうかと思われます。
パイオニアシップを標榜して、かっては日本の海外登山をリードしてきた京大学士山岳会は、何処にパイオニア精神を求めてゆくのでしょうか?
標高は低くとも誰も登っていない山、しかも地理的且つ民族学的乃至科学的探検に魅力のありそうな辺境地を求めて、パイオニア精神を発揮しようとするのでしょうか? 
それも良いでしょう。
でも、京大学士山岳会は、この25年以上、日本の山でもまともな登山活動をしていません。そんな山岳会が、日頃の真摯な態度での登山の鍛錬もなくして、たとえ標高が低かろうと未踏のヒマラヤ登山を試みることは、山に対する且つ自然に対する冒涜ではなかろうかと私には思われます。しかも、学術登山、学術探検遠征隊というような見せかけの錦の御旗をかかげて他人から金を集め、個人の遊びの登山を平然として「私どもは、パイオニアワークの学術登山を行っています」と嘯きながら、海外登山に出かける神経には、私はついて行けません。学問的に価値のある遠征なら、何故登山とは切り離して学術調査一本で募金を集めて、調査研究に行かないのでしょうか? その方が、遠征の全期間を、はるかに有効に調査に使える筈でしょうに…。
政治家は、民間企業や一般大衆を手なずけて、如何に多くのお金を集め得るかが、その政治家の力と言われているそうです。何か、似かよったものを感じます。
これは、パイオニアシップ云々の以前の、人間性の問題ではなかろうかと考えます。
それはそうとして、何をもってパイオニアとするのか、その定義も定かではない時代になってきました。
他人がやっても、己がやってないこと、他人が登っていても己がこれまで登っていない山に挑戦することも、パイオニアに入るのかも知れません。リビングストンやスタンレーの探検だって、彼らがアフリカを知らなかっただけで、その前から原住民は住んでいたのですから。言い換えてみれば、地理学上の探検なんて、発展国が未開国乃至は発展途上国に勝手に出かけていって、自分達の知らなかったことを自分達の住んでいる発展国内で発表することにより、パイオニア的探検だったとか仰々しく宣伝して、自己満足に陥っていただけかも知れません。
恐らくパイオニアの定義なんて、世の中に存在しないのかも知れません。
自己宣伝的なまやかしのパイオニアより、己自身の心のパイオニア精神が、より大切になってきつつあるような気がします。

3)「変わってますな。お宅の家庭は・・・」
「あんたはん、夏休みは一人で一週間も山に登ってきたやゆうやおへんか。奥さんは九州へ演奏旅行。娘はん達はどないしてはりましたんや?」
「いや、娘達は友達と旅行に行きましたわ」
「エエンでっかいな。それで。家庭がバラバラやおまへんか」
「家内も、娘達も、私もそれぞれが夏休みを楽しみましたよ」
「変わってまんな。お宅の家庭は」
この人が言うように、日本の画一的な生き方からみれば、確かに我が家は変わっているかも知れない。でも、学校でも、職場でも、家庭でも、まるでユニホームを着せられたような画一的なものの考え方、生き方、遊び方をする必要があるのだろうか。個々の人間、それぞれ違ったものの考え方、趣味を持っている筈。
日本は画一化された集団主義の社会とは頭では解っている積もりでいても、マイノリテイーには住み難い国だ。これも単一民族のなせる欠点か。

4)台湾からやって来た桃の缶詰のバイヤーに、今西錦司さんの「南ア混血論」の話をしたら「阪本さん、エエ考えですなあ。台湾、日本、韓国、中国、そして他の東南アジア諸国から3,000万人がこの国に来たら南アは変わりまっせ」と。
「これだけの広い土地と資源があったら、絶対やれまっせ。黄色人種と黒人、白人、ごったまぜにしてどんどん子供をつくりますねん。そしたら、人種差別がなくなります。信望ある者、実力のある者が大統領になったらええんや。南アは、素晴らしい国になりまっせ。ええ考えやなあ・・・」と台湾のオジサンは、すっかりワインでご機嫌になってしまい、まるで、未来の南ア大統領になったかの如く、胸をはって、レストランで大演説。こんなことが、本当に起こりえるのだろうか、この南アで・・。