C 「何で山に登るねん」

(南ア日本人会会報 スプリングボックNO.221掲載文)



      
3ヶ月程前、十数年振りに大学時代の仲間から便りを貰った。彼は、私達の山仲間では技術的にもトップクラスのクライマーで、常により困難な山登りに挑戦する先鋭的な登山家であった。二度も職業を捨ててまで、ヒマラヤ遠征に出かけた男であった。その彼が、35歳を過ぎるとプッツリと山を止めてしまい、私達山仲間から姿を消してしまっていた。

久し振りに貰った彼の手紙の中に「あのまま、俺の思うままに真っ直ぐ突き進んで山を登り続けたら、俺は死んでしまうと思った。のんびりと山を楽しむのも良いけれど、それは俺の山登りではなかった。より困難な登山、誰も登っていない登攀を追い求めるのが、俺の山登りであった。松田がヒマラヤで死んだ時、このまま俺のやり方で登り続けたら、何時か俺も同じ運命になると、急に山が怖くなった。俺は山で死にたくないから、山を止めたんだ。俺と同時代の植村直己や山田昇も、俺と同じような山登りの仕方で、次から次へと困難な山行計画に追いまくられ、結局山に散ってしまった。彼らは素晴らしい登山実績を残したけれど、俺はあの時、山を止めて淋しいと思ったけれど、それで良かったと思う。」と告白している。
「大学時代から10年余り、君と一緒に山に登ったが、技術的にもそんなに大した奴じゃないし、なんてのんびりした山の登り方をするんだろうと思っていた。そんな君が、未だに山への情熱を失わずに登り続けていると聞いて、驚き且つ羨ましく思っている。俺の登り方は常に山への挑戦、そして他人との競争であった。君のような山登りの仕方があったのだなあと、今になって解りかけてきたような気がする」

高田直樹氏の「なんで山に登るねん」という愉快な本があるが、前述の山中間の手紙が届いてから、山登りについて考える事が多い。確かに、私の山登りの仕方は挑戦するような山登りではない。山という自然の中に入り、山と一体となること自身が、私の楽しみであり、私の山登りであると思う。ヒマラヤ遠征にも出かけたいと思うこともあった。でも、商社という職業柄、長期の休暇は許される筈もなく、一種のあきらめの境地から、今の山登りの仕方が定着したのかも知れない。私が本格的に山に登りだしたのは、大学山岳部に入ってからだったが、山への憧憬はもっと昔に始まったような気がする。終戦直後の小学生時代には、食糧の確保の目的も兼ねて、近くの川へ魚とり、春には山野へ山菜採り、秋にはイナゴや栗を求めて、となり近所の腕白連中とかけめぐった。
中学の生物班に入ると、蝶を求めて京都北山や比良山へ、地図を片手に、毎週末に山をほっつき歩いた。未だテントも持っていない時分で、毛布だけをリュックに入れて、炭焼き小屋で寝たり、星空を眺めながら野宿したものだった。
中学の高学年から高校にかけては、親父と二人で大山、大台ヶ原、八ヶ岳、穂高などにのんびりと親子で歩き廻ったことも、懐かしい思い出である。

山へ入り、山の中の岩壁、植物、そして移り変わる谷の景色を眺めているだけでも、私の心はなごむ。
南アの山の自然は素晴らしい。ナタール州のドラッケンズバーグには、既に28回通い、イースタン・トランスバールやその近郊のマハリエスバーグ等の日帰り山行も数に入れるともう60回位山に入っただろうか。

同じ山でも、登る方向により、ルートにより違った山になる。晴天の日、雨の日、雪の日によっても、山は変わる。四季によっても、同じ山でも違った顔を持つ。槍ヶ岳は一つの山だが、又一つの山ではないのである。「一即多。多即一」なのだ。

エエ歳してと他人様には笑われようが、南アにいる間は、ここでしか味わえない南アの山の自然を満喫してみたいと思っている。