(2001年4月23日ー5月22日)
今年の3月末に建設省を定年退職された宮川清明さんの退職記念を兼ね、宮川夫妻と御一緒に4月23日から1ヶ月の山旅にネパールへ出かけた。
行き先はランタン谷からゴザインクンド。
ランタン谷は、1949年に初めてこの谷を踏査した英国の有名な登山家のテイルマンがヒマラヤで最も美しい谷の一つと絶賛した明るい開けた谷である。ランタン谷の盟主である7,254mのランタンリルンは、私が大学山岳部2回生の1961年に、リルン氷河から挑んだ大阪市立大隊がいよいよ頂上アタックの態勢に入ろうとした時、C3を襲った雪崩が森本嘉一隊長、大島健司隊員、そしてマナスルの初登頂者であったサーダーのギャルツエン・ノルブの3人の命を奪った悲劇の山であった。そして、1978年になってようやく因縁淺からぬ大阪市立大隊にその初登頂を許した難攻不落の山であった。キャンジンゴンパからランタン谷の奥に眺められる、すくっと聳える6,387m
のガンチェンポは、大学時代の岳友の島田喜代男君と上田豊君が、1964年の秋にアンナプルナ南峰の初登頂をした後に、たった二人で登りに出かけた山であった。
若い時から関心のあったランタン谷のそんな山々を、自分のこの目で眺めたいとの熱い思いで出かけた山旅であった。若い時にむさぼるように読んだテイルマン著の「ネパール・ヒマラヤ」や、大阪市立大学の「ランタンリルン遠征報告書(1961 PREMONSOON)」、そして京大山岳部の「ガネッシュの蒼い氷」等の本を読み直して、ネパールに旅立つた。
カトマンズに2日滞在した後、乗り合いのローカル・バスでトレッキングの出発地点のシャブルベンジに向かった。
ガイドの手配を頼んだ現地のトレッキング業者は「冷房もない乗り合いバスは満員で窮屈で、時間もかかって大変よ。チャーター・ミニバスは冷房も効いていて、快適。普通250ドル位だけど、上手く交渉して200ドル位に値切ってみるよ。日本のトレッキング・グループはみんなチャーター・バス使ってますよ」と執拗にチャーター・バスを奨めてくれたが、「年金生活者の、我々は貧乏ですから・・・」と丁重にお断りして、カトマンズのニュー・バスターミナルから乗り合いバスに乗ることにした。
前日にシェルパと一緒に、ニュー・バスターミナルに出かけてバスの乗車券を購入。我々3人と、シェルパ、ポーター2人の合計6人のバス賃が680ルピー(1ルピーが約1円65銭換算で1,122円)。翌日バスに乗り込んだ時に、荷物代を支払ったが、これが350ルピー。締めて1,030ルピー(1,699円)だった。ちなみに、後日、他のネパール人に聞いたところによると、カトマンズからシャブルベンジ迄のチャーター・ミニバスはせいぜい70-80ドル位ではないかとの話だった。
カトマンズのニュー・バスターミナルは、廃棄ガスで息が苦しい程。40人乗り位のバスに、乗るわ乗るわ、見る見る超満員になり、おまけに屋根の上まで乗客があふれる状態。各駅停車のバスは、のどかな田園風景の中を走る。止まる度に、新しい客が乗り、屋根の上も超満員。鶏を入れた大きな籠まで、バスの屋根の上に同乗。途中、トリスリ・バザールで1時間足らず休憩し、乗客はそれぞれ近くの食堂に入り昼食。我々は、1人前80ルピーのダルバードを食べた。
昔はシェブルベンジまでバスが入っておらず、大阪市立大学はカカニから、京大はトリスリ・バザールから歩いたらしい。 村落の停留所に止まる度に、地元の子供やオバチャン達が、商魂たくましくスイカやキウリの縦割りにした食べ物等の売り込みにバスへ殺到してくる。カトマンズからシャブルベンジまで9時間半かかったが、乗り合いバスの旅は、地元の人たちとの触れあいがあり、実に楽しい。ある村にバスが着いた時、ネパールの焼酎のロキシーのビンをもってバスに近づいてきたチベット系の女性がいた。満員のバスに押し掛けてきたその女性を車掌が払いのけようとしたのか、引っ張り上げようとしたのかは定かではないが、その女性の持っていたビンが落ちて割れてしまった。あたり一面強烈なロキシーのにおい。大事なビンが割れてしまいどうしてくれるんだとその女性は車掌に強硬に抗議し、彼女の仲間も加わって延々たる論争が始まり、バスは30分以上も動かず。でも、乗客は文句も言わず、楽しそうに、のんびりと成り行きを見守っているだけだった。最終的には、車掌は一銭の賠償金も払わずに、バスは出発した。
深い谷の急斜面にしがみつくように耕された段々畑。その急斜面をトラバースするように、100曲がりの道を乗り合いバスは走る。走るバスの下は目もくらむような谷なのに、バスのドアから外に身を乗り出して、バスの屋根に登って客から運賃を集める軽業師のような車掌さん。チャーター・バスで行ったら、とても経験出来ない大変味わいのあるバス旅行であった。
シャブルベンジは、バスが通じるようになってから急速に大きくなった部落らしい。ここからランタンリルンの麓のキャンジンゴンパ(3,840m)まで2日半の行程。
吊り橋を渡り、樹木の生い茂るランタン谷の左岸の高巻き道を歩く。バンブーロッジの手前のランドスライドの近くの河原に温泉があった。ほんの2-3年前にボーリングされたらしい。バンブーロッジの辺からランタン谷は岩をかむ白い激流となる。リムチェ近辺までが、ランタン谷の最も落差の激しい部分のようだ。1日目はラマホテル泊まり。ここより上は谷は緩くなり、ラリグラスと呼ばれる石楠花の花が現れ出した。ゴラタベラに近づくに従って、ラリグラスの数も増え、赤、白、ピンクの花が群落となって咲き乱れる。谷が広くなって、樹林が低くなってくると、白いランタンリルンがようやく顔を出す。
ランタン谷の右岸の広い台地にあるランタン村は、畑やヤクの放牧地がある明るい開けた村だ。冬場も人の住む常住の村は、このランタンが一番奥の村らしい。
翌日の4月29日に3時間程歩いて、キャンジンゴンパに入った。ランタンからキャンジンゴンパまでも、開けた良く耕された畑と放牧地がつづく。キャンジンゴンパから眺めるランタンリルンは、大変美しい山だが、登るのは実に難しそう。1949年にキャンジンゴンパからランタンリルンを眺めたテイルマンは「偉大なカールの氷壁によって守られた南面を見ると、こちら側からの攻撃は全く不可能と認めざるを得なかった」と書いている。何時雪崩が起こっても不思議でないリルン氷河しか登路がないと、大阪市立大も判断したのだろう。リルン氷河の右側には大氷壁となって鋭鋒を連ねる6,745mのキムシュンが聳えるが、何処から手をつけたら良いのか解らないほど難しい山だ。
この山は、薬師義美さんのヒマラヤ名峰辞典では未だ未踏峰との事。
大阪市立大学隊と同じようにリルン氷河を登り、一度ランタンリルンとの間の稜線にでてから登るしかないのだろうか? その日は、キャンジンゴンパの後ろの4,200mの裏山に、宮川さんと2人で高所順化を兼ねて登った。約1時間で登り、下山は30分程。二人共調子は悪くない。
4月30日、いよいよ憧れのランシサ・カルカへ出かける日だ。キャンジンゴンパの1km程上流に、今はもう使われていない飛行場にヤクが放たれていた。5,846mのナヤカンガと5,930mのポンゲンドプクの間のガンジャ・ラの雪面にトレースが見える。1958年にジュガール・ヒマラヤの探査行に出かけた深田久弥さん達がガンジャ・ラを越えており、この峠の上から薬師岳に似たシシャパンマを見ておられる。ポンゲンドプクの奥に純白のウエッデイングドレスをまとったような山が光り輝いている。テイルマンがフルーテッド・ピーク(ヒダのある峰)と名付け、オーストリーの登山家のアウフシュナイダーがガンチェンポと呼んだ山だ。テイルマンは「私たちはすぐそれをランタン谷で最も美しい宝石のような山と認めた。その西面には扇の骨のように、雪の縦襞がついていたので、私たちはその峰をフルーテド・ピークと名付けた。」とその山を称賛し、試登している。ヌバマタンより、島田君や上田君が試登の際に取り付いたポンゲンドプクの氷河、そしてその奥のガンチェンポの稜線に通じるルンゼをあきる事なく眺めた。
ランタン谷が左に直角に曲がるあたりになると、高さ150-160mの厖大なモレーンが張り出し、これを登り切るのに一汗かいた。モレーンの小山を超えるとランタン谷は又広くなり、右からランシサ氷河、左からシャルバチュム氷河が入る合流点の広々とした台地に、ランシサカルカ(4,125m)がある。右手の正面に6,427mのランシサリが見えるが、左手は高いモレーンに視界を遮られ氷河の奥のシャルバチュム6,918mは全く見えない。右手のランシサ氷河の奥には、大阪市立大の常慶和久君達が1964年に初登頂した6,151mのウルキンマンが、雲の切れ間に見え隠れした。
ランタン谷の奥には、中国との国境稜線に聳える7,205mのランタンリが、左手にテイルマンのコル(5,749m)、右手にはハーゲンのコル(6,050m)があるはずだが、あっという間にガスが広がって何も見えなくなった。下山途中から小雪混じりの雨となり、10時間のハイキングに3人ともすっかり疲れ切ってキャンジンゴンパに帰りついた。
翌5月1日は、宮川さんと2人で、4,984mのツエルゴ・リに高度順化に出かけた。ランタン谷を2km程上がったあたりから左手の尾根に登り、小さなカルカを越えて4,600mの台地へ。ここからは、雪崩が出そうな雪面を左手の岩稜帯の方にトラバースして肩にでて、頂上直下の深い雪をアイゼンなしで登った。ツエルゴ・リの北側は広いカール状になっており、一番奥に6,534mのヤンサツエンジが聳え、右手の手前に我々が登ろうとする5,520mのヤラピークが見渡せた。左手のピークがヤラピーク本峰と思われるが、これを登るのには許可が必要との事なので、我々は右手の少し低い東峰に登る予定。この日は約8時間の行動であった。
翌日は完全休養日とし、5月3-5日の3日間の予定でヤラピークを登る事にした。
高度順化が充分でない宮川夫人はキャンジンゴンパに残り、宮川さんと私とシェルパの3人で出かけた。
5月3日は小雪がやみだした9時にキャンジンゴンパを出発し、3時間でヤラカルカの上部のテント地についた。その日の午後はゆっくりと休養し、早めに就寝。
翌4日の朝3時にテント地を出発するも、小雪混じりの視界の悪い天気であった。何度もヤラピークに登っていると言うシェルパを信頼し、黙々と歩く。アイゼンは使わずに、締まった堅雪をキックステップで登った。5,200m位から斜面はきつくなり、左手の雪面は雪崩の危険がありそうなので、岩壁の右側のクーロワールを登って岩稜にでた。この箇所は、シェルパが先に登り、私にザイルを出してくれた。頂上直下の雪壁に約50mのフィックス・ロープを2ヶ所、彼が先週登った時張ってあり、これを利用して登った。8時55分に頂上登頂。
頂上から、斉藤惇生元日本山岳会長が登られたシシャパンマを眺めたいと期待していたが、濃いガスで視野が遮られ全く何も見えず。視界の殆ど無い中を、シェルパのルート判断に全てをゆだね、12時15分にヤラカルカのBCに戻った。
宮川さんと2人だけだったら、とてもこの広い尾根を迷わずにBCに戻れ無かっただろう。
翌朝、快晴の中をキャンジンゴンパに下山した。
一日違いで、残念ながら頂上からの展望のチャンスをつかめなかったが、無事登れて本当に良かったと、禁酒を解いてロキシーで久しぶりに乾杯した。
5月6日にキャンジンゴンパに別れをつげ、ランタン谷を下った。
来るときに見たシャクナゲは大分散り掛けていたが、小さかったアヤメや桜草、猫の目草等は見違える程大きくなっていた。バンブーロッジで1泊した後、ランタン谷から離れて急峻な尾根をツロシャベルに登り宿泊。久し振りにふんだんに出るホットシャワーで、すっきりとした気分になった。
5月9日は、そぼ降る雨の中を、樹林帯の滑りやすい山道を黙々と登り3,584mのシンゴンパに。泊まったロッジの隣に、チーズ工場があったが現在は生産しておらず、他の工場で作ったチーズを売っていた。
その夜は、ネパール音楽を流すロッジのテープに合わせ、シェルパやポーター達と一緒に楽しく踊った。
3,930mのラウルビナヤクからは、石楠花の花越しに北にはランタンリルンが、その左の西北には中国との国境の山々、そして西の方にはガネッシュ・ヒマールやその向こうのマナスルの山々が手に取るように眺められた。
樹林限界を過ぎて、砂と岩の殺風景な景色の道をひたすら登ると、真っ青な湖のあるゴザインクンド。ゴザインクンドには、大きな寺は無いが、人間の煩悩と同じように108の聖なる湖があるそうだ。
標高4381mあるゴザインクンドでの宿泊は、かなり寒かった。
4,600mのラウルビナヤク峠への道は雪に埋もれていたが、難なく越えて、左手に穂高連峰のような山を見ながらドンドン下ると、フエデイのロッジ。そこから嫌になるほど遠い道を歩いてその日の宿泊地のコプテに着いた。
コプテからクツムサンへも9時間のしんどい登り下りの道であった。よくも耕したと感心させられる、尾根筋から眺める急斜面の棚田。クツムーサンからチサパニへは、樹林帯の道となるが、苔むした大木に寄生するいろんな種類のランの花が見事に咲いていた。尾根筋からカトマンズ盆地が見え始め、5月15日にスンダリジャルに下山。
21日間の楽しいトレッキングが終わった。
ゴザインクンドからスンダリジャルへの道は、トレーッカーは非常に少なく(勿論日本人には誰も会わなかった)大変静かな気持ち良いトレッキング・ルートであった。スンダリジャルのバスターミナルから乗り合いバスに乗ってカトマンズに戻ったが、ガイドが車掌とバス賃を交渉し、7人で450ルピー(742円)に値切ってしまった。その後、カトマンズに6泊滞在し、観光を楽しんだ後5月22日に帰国した。
今回の費用は、往復航空運賃10万円、関空空港施設料、お土産代、バンコクでの1泊の宿泊費・食費、そしてネパールでの全ての費用を含めた総費用で、一人当たり23万2千円であった。
昨年の秋のアンナプルナへの山旅は30日で24万8千円だった。
私たちは、シェルパだけは現地の旅行業者に紹介して貰ったが、そのほかの事は全て自分達で手配し、トレッキング中の宿泊はロッジ泊まりの旅とした。
エベレスト、アンナプルナ、そして今回のランタン・ゴザインクンドのようなポピュラーな地域にはこの10年程の間に数多くの宿泊設備が完備されてきた。ベッドに清潔なシーツと枕を備えた鍵のかかる二人部屋が、1泊100-200ルピー(165-330円)。
殆どのロッジのトイレも水で流すようになっており、日本の山小屋のように糞尿の厭な臭いに悩まされる事も殆どない。
食事も、100-120ルピーでダルバートが食べられ、そのほかオムレツ、スパゲッテイ、ピザ等贅沢さえ言わねば充分な食べ物が安い値段で食べられる。それぞれの地域で協定価格が決められており、メニューもキチンと備えてあり、明瞭統一価格なので安心出来る。ミネラル・ウオーターは何処のロッジやバッテイでも買うことが可能であり、下痢防止には有り難い。
勿論高度が上がると、全ての食べ物や飲み物の値段は上がるが、1日1人当たり平均10ドルもあれば充分で、ロキシーもこの予算内で毎日飲むことが出来た。
カトマンズでは、4つ星や5つ星の高級ホテルには泊まらず、トイレと風呂場がついていて清潔且つ気持ち良い従業員のいる、1泊20ドルのタメルの小ぎれいなホテルを使った。
シェルパの日当は、1日10ドル で宿泊費、食事はこちら持ち。
ポーターは1日400ルピー(660円)で、宿泊費・食事費用は本人負担。
21日間のシェルパ・ポーターの日当とチップ, それにシェルパの装備料・保険料、国立公園入園料等々で合計961ドル
、即ち1人当たり320ドル(約4万円)であった。
トレッキング中の宿泊費・食費、カトマンズでの泊まり賃・食費、観光費用、現地交通費、食料・EPIガス購入費、バンコクでの1泊宿泊費・食事費用、そしてその他もろもろの雑費を含めた全ての費用が9万2千円。しめて総費用1人当たり23万2千円の山旅であった。
ロッジのある地域では、テント泊まりより、ロッジ利用の方が遙かに快適である。雨の心配をする必要もなし、洗濯物も乾かせるし、運が良ければホットシャワーも浴びることが出来、更にビールやロキシーも好きな時に飲める。そして何よりも、ロッジの経営者や従業員等の地元の人達と親しく接触する事が出来、又同宿する他国のトレッカーとの交流のチャンスを持てるのが嬉しい。
ランタン谷には日本人のグループが沢山きていたが、全て旅行業者が手配するオーガナイズド・トレッキングと言う「全てお任せ」式のテント泊まりのトレッキング・グループであった。
欧米人は団体行動をするより、個々人が気楽に安く楽しめるロッジ利用の小人数のテイーハウス・トレッキングの方を好み、テント泊まりのオーガナイズド・トレッキングは極めて少ない。「毎朝シェルパがテントまでお茶を持ってきてくれる」と悦にいっているのは、どうも日本人だけらしい。一昔前の遠征隊ならいざ知らず、小ぎれいなロッジが幾らでもあるのに、何故だろうか?
何でも自分でやって、少しでも安く旅を楽しもうとする欧米人は、ガイドもポーターも雇わずに自分たちでザックを担いで歩いている人たちも結構多い。この人達は、1人1日10ドルで充分と言う。
ちなみに、日本の旅行業者の募集するネパール・トレッキングツアーは、航空運賃約15万円、現地費用は1日当たり8千ー1万円が相場のようだ。
日本人は言葉が不自由だから、旅行業者に依存せざるを得ないと言う人もいるが、ネパール語も英語もしゃべれないドイツ人、フランス人、イタリー人やオランダ人等も、自分達だけでロッジ泊まりの旅を実に楽しくエンジョイしている。言葉ではなく、「金さえ出したら、旅行業者が全てやってくれて気楽や」と言う「セットメニュー好み」の日本人の特有のメンタリテイーよるのではなかろうか。
行きたい所・登りたい山を自分で選定し、資料を集めて自ら企画し実行する、そんな積極的に参画する旅行や登山が日本人には益々少なくなりつつあるように思える。買って貰ったゲーム機を、指先だけを動かして、他人が作った・与えられたゲームに戯れるだけの日本の子供達。大人達の世界でも、連れて行って貰うトレッキング、他人の後ろからゾロゾロついてゆく日本人の登山が、日本国内でも海外でも、まだまだ続きそうな気がする。