マウント・レーニア登山

(1999年8月21日ー30日)

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紺碧の空に浮かび上がる白き山。シアトル空港から眺めるマウント・レーニアは実に秀麗な山である。

3年前にエクアドル・アンデスのチンボラッソ峰を登りに行った際、行き帰りの飛行便乗り換えの時に眺めたマウント・レーニアは、実に印象的であった。
マウント・レーニアは、アメリカ最大の氷河を持つ独立峰で、アメリカの西海岸に有るカスケード山脈の盟主である4,392mの活火山である。26の放射線状にかかる谷・氷河を持ち、氷雪域は117kmにも達し、アラスカを除くアメリカ合衆国最大の豪雪地域で、何時見ても白い氷雪を抱く秀麗な独立峰は、現地の日系人から「タコマ富士」と呼ばれている。又、マウント・レーニアは、アメリカ人として初めてエヴェレスト登頂者になったジム・ウイタッカー始め、この山の登山ガイド出身でヒマラヤ遠征で活躍した数多くの登山家を生み出してきた。

   
   
   


ガイドの主催する登山学校は、5日間のコースで基礎訓練から登頂までの一環セミナーで、ノーマル・ルートから登る人達の殆どが入るらしいが、参加費が一人約635ドルもかかる。
貧乏人の我々は、出来ればガイドなしで自分達だけの手作りの登山をしたいと、海外登山のベテランの須藤さんと、吉村さんにリーダーを御願いし計画を推進する事にした。
昨年暮れに、広島の吉村さんより、今年の8月にレーニア登山を実行しましょうとの誘いかけがあり、新年早々早速準備にとりかかることになった。気心の良く解った親しい山仲間のチームで、安全且つ楽しい山旅をしようと、1996年のチンボラッソの仲間、それに広島市民登山講座で須藤さんや、吉村さんと一緒にミニヤコンカやメキシコのオリサバ峰に出かけた山仲間に絞って声をかけた。
10人前後位のパーテイと考えていたが、マウント・レーニアに惹きつけられる人が多いのか申込者は23人になってしまった。

2−3日の好天を狙って登頂したいので、レーニア山の近くの街に有るモーテルを借り切ってベースにしようと、1月始めからモーテル探しを始めた。出来れば自炊出来る台所のついた部屋も3−4つ欲しい。しかし、10室もまとまってあいているモーテルがなかなか見つからず、ファックス、e-mail, 電話でアメリカのモーテル探しに四苦八苦。2月中旬にようやくレーニア山の南に有るPackwood と言う街(登山口のパラダイス迄車で約30分)にあるTatoosh Motel と言うモーテルを予約出来た。須藤さんに航空券の手配を御願いしたが、8月21日ー28日は未だハイピーク・シーズンと言うことで、安い値段が出てこず、おまけに座席の予約がなかなか出来なかった。最終的には、8月中旬になるまで、フライトが確定せず、須藤さんには随分と苦労をかけさせてしまった。

出発迄に、十分なトレーニングをしておこうと、5月末には富士山で雪上訓練、6月中旬には金比羅で岩登リトレーニング、そして8月初めに打合会。その他、個人グループで、剣岳、雨飾岳、富士山、錫杖岳、大山等の個人トレーニングが行われた。出発直前になって、体調を壊し残念ながら参加出来なくなった人が4名。
結局、参加者は、登山組15名、ハイキング組4名、合計上記の19人となった。

8月21日16時45分関西空港より16名がNW096便にて出発し、シアトル着同日9時20分。成田より、3名がAA27便にて17時30分出発、シアトルに10時着。ハーツで、セダン2台、7人乗りミニバス2台を借りて、10時40分出発するも、途中で何度か道を間違え、Packwood のTatoosh Motel に着いたのは15時40分になってしまった。 
Packwood は、レストランが3軒、スーパーマーケット1軒、人口約3,000人の小さな田舎町。
近くに大きな、キャンピングカー専用のキャンピング場がある。
Tatoosh Motel は、広い敷地に平屋建が点在する14室しかない小さなモーテル。
でも、広い中庭、緑の芝生と美しい花壇が気持ちよい。約20人程入れる集会場とジャクージ(野天風呂)も自由に使わして貰える。簡素だが清潔な部屋と、気さくな主人のリチャードの暖かい配慮が何よりも嬉しい。
 
翌22日(日)は、先ず共同装備及び個人装備の点検。
その後、偵察を兼ねパラダイス近辺のハイキングに出かけた。
9時40分にモーテルを出て、ホワイトリバーゲートより標高1,647mの登山口にあるパラダイスに行く。
マウント・レーニア国立公園の入園料は車1台あたり10ドル(この領収書で、1週間の出入りが可能)。
樹林帯が切れるあたりにあるリフレクション・レークと言うマウント・レーニアが湖面に映る美しい湖があった。湖の対岸の森の上に聳えるマウント・レーニア。正面にニスカリー氷河、そしてその右に緩やかな広大なミュアー・スノウフィールドの雪面がキャンプ・ミュアーへの稜線へと広がる。
日曜日の為か、パラダイスの駐車場は超満員。
レンジャーの事務所で登山届けを提出する。 1パーテイ12人迄と言う規則になっているらしいが、係官の粋な計らいで7人と8人の2パーテイと言うことで許可を貰った。
入山日8月23日、最終下山日8月25日。登山ルートは、「Paradise」ー「Camp Muir」ー「Inglaham Glacier」ー「Disapointment Cleaver」(通称DCルートと呼ぶらしい)。登山料金一人15ドルを支払い、許可書と下山届けを受け取った。
マウント・レーニアでは、自然環境保護の為人間の排泄物(大便)は、登山者の責任で持ち帰る事になっている由。一人1個のグリーンバッグを無料で支給される。足らなくなったら、キャンプ・ミュアーでも貰えるとの事。使用済みのグリーンバッグは、キヤンプミュアーに備え付けのバッグ回収用の缶に入れるか、自分で持ち帰えらねばならない。
登山届けを出した後、パラダイスより、約2時間程のんびりとハイキングをした。ハイキング道の両側には、アバランチ・リリー、紫のルービン、グレイシャーリリー、レッド・ヒース、ルピナス、ペイント・ブラシ等の高山植物が咲き乱れる。その向こうにニスカリー氷河が急角度の階段となり白い山頂へ突き上げる。最高峰のコロンビア・クレストは、ここから見えない。ジプラルタル・ロックから降りてくるCowritz Cleaverの末端に小屋が見える。あれがキャンプ・ミュアーのようだ。

8月23日(月)いよいよマウント・レーニア登山開始。
7時40分モーテルを出て、パラダイスの駐車場にて荷物を整えた後、9時20分 に出発。須藤/秋野/上田/福崎、吉村/坪山/吉岡、能田成/直子/井上/田中昌、阪本/伊藤/朝倉/佐藤の4組のザイル・テントパーテイに別れて歩く事にした。
パラダイスからスカイライン・トレイルを歩き、約2時間足らずで、右手の尾根の上にでた。
紺碧の空にニスカリー氷河が伸び上がっている。
ここから、ペブルクリーク・トレールと言う左手の道を取り30分も行くと、氷河がでてきた。
傾斜のややきつい雪壁を越えると広い雪面となり、パラダイス氷河から傾斜の緩い幅2-300mの広いミュアー・スノーフィールドとなる。吹雪かれたら、大変だなあと思いながら、単調な雪面を、ズッポでただただ歩くのみ。
登山学校の20人近いグループが、ガイドに叱咤激励されて重荷を担いでもの凄いスピードで登ってくる。こんな馬鹿ピッチで歩いて、バテないのだろうか? 右手の岩稜上のアンビルロックがすぐ近くに見えるが、なかなか近づかない。日が陰りだし、ジプラルタル岩壁の岩稜の裾にあるキャンプ・ミュアーに着いたのは、16時20分だった。
稜線のカウリッツ氷河側の雪の台地にテントを設営。須藤パーテイは、約50分程送れて到着した。
キャンプ・ミュアーには、稜線上にレンジャーの小屋、ガイド用の小屋それに登山学校用の小屋と、一般登山者用の避難小屋(25人用)が建っており、3つのトイレが有る。明日のアタックは、0時出発だ。夕食を終え、アタックザックに明日の装備を準備して仮眠に入ったのは20時を過ぎてしまっていた。

23時起床。緊張のせいか、皆1−2時間位しか眠れなかったようだ。 アイゼンを付け、ヘルメットをかぶり、アンザイレンして0時20分テント地を出発。
キャンプ・ミュアーの東側のカウリッツ氷河に降り、懸垂氷河のしたまで少し登って、そこから右手の方にあるカテドラル・ロックのとりつき迄氷河をトラバース。気温はそれほど低くない。摂氏2−3度位だろうか。
約30分足らずでカテドラル・ロックの岩の切れ目のガリーのガレ場にうまくつけられた登山道にでた。アイゼンをとって標高差約100mの急坂道を登ると、コル(カテドラル・ギャップ)に着く。このコルから、カテドラル・ロックの東側を巻くようにトラバースして行くと、イングラハム氷河に降り立った。クレパスの間に甲子園の10倍位の台地があり、イングラハム・フラットと呼ばれる幕営地点である。テント2張り有り。イングラハム氷河を横切るように東へ東へと歩くとDisappointment Cleaver (失望の岩稜)に行き当たる。
今年は、雪が多かったのか、クレパスの状態は良好であり、またいだり、飛んだりして簡単に越えられた。通常、ジュラルミンの梯子で越えねばならぬ箇所が何カ所かあるらしい。落石、氷の崩壊が多く、時々不気味な音が聞こえてくる。このあたりの危険個所を心配していたが、北アルプスの縦走路程度の状態の登山道がきちんとついており、アイゼンをぬいで割と楽に登りきる事が出来た。
岩稜にでて、うっかりと右の方に行き岩稜の東側にトラバースしてしまったが、後ろから登ってきた登山学校のガイドに間違いを指摘されて引き返し、岩稜の西側を巻くようにつけられた登山道を登る。
途中から、クラストした雪がでてきたので又アイゼンをつける。ジグザグにうまくつけられた急登のトレースをあえぎながら登る。もう、岩稜の頭かと思うと又急な雪面が現れた。「失望の岩稜」とは、うまく名付けたものだ。
左手のジプラルタル・ロックがほぼ同じ高さとなってきた。
東の空が白みだした6時頃に、広い雪面の台地の失望の岩稜の頭(約3,700m)に着いて大休止。ヘッドランプを消す。
ここまでは暗い中を歩いて来たので、それほど時間の経過が感じられなかった。
雪を50cm程掘った穴の中に、寝袋に入れられた2人の登山者が寝ころんでいる。ここまででバテテしまった登山学校の参加者であろう。
ここから頂上迄、未だ700mもある。左手には、高さ15-20mのセラック、正面から右手の急な雪面をクレパスを避けながら登る。赤旗がついており、トレースもはっきりしているので、ただ登っているだけで良いが、一度吹雪かれたらルートを見つけるのに大変なところだ。
日が昇ってきて、いっぺんに暑くなる。右左とジグザグにつけられた急登のトレースをたどる。暑くなると、疲労と眠気が一挙にでてきたのか、皆の歩くペースもガクンと落ちて来た。
クレパスが次々に現れ、右に200m行き、今度は左に300mと歩いている距離の割には高度が上がらない。
外輪とおぼしき大きな岩のあるピークが見えてきた。ここから、更に大きく左手、即ち西側の方に巻くようにトラバース。
ガイドたちのパーテイが降りてきた。「頂上はもうすぐ。おめでとう」と声をかけてくれる。でも、ここからが、本当にしんどかった。ようやく外輪についたと思ったら、最高峰のコロンビア・クレストは、火口のだだっ広い盆地の遙か向こうにあった。
「阪本さん、登山学校は、この外輪の地点を頂上としてここまでしか登らないらしいですよ」と朝倉さん。朝倉さんもしんどいのだろう。でもここで弱気を出したら、頂上は登れない。
後のパーテイは、未だ登って来ない。
「休まずに、行きましょう」と強引に歩き出す。火口の真中あたりで、疲れがどっと出て来て足が重い。「ザックは、ここにおいて行きましょう。伊藤さんカメラ頼みます」と歩き出すも、200mも行くと、「ザイルが重いから、ザイルはここにおいて行こうよ」と伊藤さん。無言で一歩、一歩登る。コルについたら、もう頂上は、目と鼻の先。伊藤、朝倉、佐藤、阪本と4人で手をつないで広い稜線を歩き9時47分頂上に到着した。
感激の一瞬である。
遙か向こうの外輪に他のパーテイがようやく着き、火口の盆地の方に歩いて来る。コロンビア・クレストの頂上の上で4人がピッケルを振って、他のパーテイを励ますも皆かなりしんどそう。4−5歩歩いては、休む人。途中で立ち止まって思案している人。頂上の風は強い。
我々4人は、下山にかかる。
途中で、元気に登ってくる能田直子さんとすれ違う。「ガンバッテ。もうすぐだよ」。途中で、ザイルと荷物を回収して、対岸の外輪に着く頃には、全員最高峰のコロンビア・クレストに登頂していた。
おめでとう。全員15人登頂だ。
11時外輪より、下山にかかる。昨晩は、殆ど寝ていない事もあり、皆相当疲れている様子。安全に降りよう。雪が腐っていてアイゼンに雪の団子がたびたびつく。スリップしやすい状態なので、タイトロープで確実に確保しながらコンテイニュアスで慎重に歩く。
須藤パーテイは、元気良く遙か下の方を走るように降りて行く。
随分遅れて、失望の岩稜に着いたら、須藤パーテイは、気持ち良さそうに昼寝をしていた。
元気の良い、須藤パーテイの4人は、キャンプミュアーのテントを撤収して今日中にパラダイス迄下山すると言う。
私たち4人のパーテイ及び他の2パーテイは、相当疲れており、歩く速度もかなりペースが遅く、無理をすると事故につながり兼ねない。今日は慎重に幕営地迄降りて、明日下山する事にし、ジッヘルにゆっくりと失望の岩稜の急傾斜を下った。イングラハム氷河に降りたった所と、カテドラル・ロックのコルにて大休止してキャンプ・ミュアーのテント地に帰着したのは16時20分になっていた。
須藤パーテイは、我々がキャンプミュアーに無事到着するのを待って、パラダイスに下山していった。
ラーメンの夕食を取ったら一度に疲れと眠気がでて、各テント共に7時前に寝てしまった。

夜半より、風が非常に強くなり、テントがグイグイと風で押される。
朝方には、風速30mを越える強風となり、張綱も殆ど飛ばされ、中に人が寝ていたのにテントごと50-60cm動かされていた。強風で倒れそうになったテントの中で苦労して軽い朝飯を食べ、装備をザックに収納してからテントを飛び出し風に飛ばされそうになるテントを撤収する。
8時にキャンプミュアーに別れを告げ下山。
少し降りると風は嘘のように弱くなった。広い傾斜の緩やかな雪面をぶらぶらと歩く者、尻セードを楽しむ者。何時しか、ガスが出だし、視界が悪くなってきた。
気がついたら、傾斜のきつい雪面に降りてしまっており、川が流れ出している。
どうも、右側に来すぎてニスカリー氷河の側壁の方に降りて来てしまったらしい。
未だ時間は10時前なので、無理せずオーソドックスに登って来た雪面を登り返すことにする。20分ほど登り返したところで、3人の若者に出合う。彼等も、間違って同じように右側に来すぎてしまったらしい。3人は、カナダから昨日来て、今日登頂の予定だったが、天候悪く今回はあきらめて下山する途中との事。3人の中1人は、元マウント・レーニアのガイドだったらしい。3人が東側のガレ尾根を乗越してトレースを見つけて来てくれた。丁度、最初の急な雪壁が出てくる箇所であった。登りの時に感じていたが、これだけ広い雪面では視界が効かないと本当に怖い。
12時過ぎにパラダイスに無事降り、モーテルに帰っている須藤氏に電話を入れ、レンジャー事務所に下山届けを出す。
7人と8人の2−パーテイの全員が登頂と記入して報告すると、「本当に全員? ソウ、それは、素晴らしい。おめでとう」とレンジャーに祝福の言葉を貰った。
パラダイスホテルのバーで取りあえずビールで乾杯。うまい。
その晩は、モーテルで大バーベキュー・パーテイの祝賀会を行った。15人全員が登頂、無事安全に下山出来て本当に良かったと、みんなの顔も喜びでほころんでいる。

レーニア峰は、標高は4,392mとそれほど高い山ではないが、非常にスケールの大きなバラエテイーにとんだ魅力的な山であった。我々の登ったのは「DCルート」と呼ばれるノーマルルートであったが、トレースが無くて自分たちでルートを開拓するとなるとかなりルート・ファインデイングの難しくなるルートである。

26日より帰国までは、ヤキマのワイン工場見学、サンライズにハイキング、マウント・ヘレンへのハイキング、それに鱒釣り等とのんびりとした休暇を楽しみ、最後はシアトルの街を見学してそれぞれ皆満足して、成田組は8月28日に、関空組は8月29日にシアトルを発ち帰国の途に着いた。

「参加メンバー」
登山隊    : 須藤建志(L)、秋野子弦、朝倉英子、井上潤、上田濶三郎、阪本公一、
         佐藤典子、田中昌二郎、能田成、能田直子(以上JAC/京都支部)、
         伊藤寿男、坪山淑子(以上JAC/首都圏)、吉村千晴(JAC/広島支部)、
         福崎賢治(京都大学学士山岳会)、吉岡和平 合計15名  
ハイキング隊 : 酒井敏明、宮川ふみ江(以上JAC/京都支部)、酒井幸子、田中佐智子
合計4名