2003.05.28 晴れ (カトマンズへ、ラサへ)
2003.05.27 晴れ (ABCに残っているシェルパ全員BC下山)
2003.05.26 晴れ (BCにて反省会)
2003.05.25 晴れ (ABCに残っている隊員全員BC下山)
2003.05.24 晴れ (小原C4〜ABC)
2003.05.23 晴れたり曇ったり (2次隊C6〜ABC、小原C6〜C4)
2003.05.22 曇り時々強風 (2次隊C6〜登頂〜C6、3次隊ABC、フィリップABC〜BC)
2003.05.21 小雪のち晴れ・曇り (2次隊C5〜C6、3次隊ABC、1次隊大河内ABC〜BC、フィリップABC休養)
2003.05.20 晴れ、時々強風 (1次隊C6〜登頂〜ABC、2次隊C4〜C5、3次隊ABC)
2003.05.19 晴れ(1次隊C5〜C6、2次隊C4、3次隊ABC)
2003.05.18 晴れ 強風 (1次隊C4〜C6、2,3次隊ABC)
2003.05.17 晴れのち雪 (1次隊停滞、2,3次隊ABC)
2003.05.16 晴れ時々強風 (1次アタック隊C4へ)
2003.05.15 晴れ (小笠原、前田ABC〜BC、アタック隊停滞)
2003.05.14 晴れ 強風 (アタック隊 停滞)
2003.05.13 うす曇のち晴 (アタック隊員、全員ABC入り、雨宮隊長はBC)
2003.05.12 晴 (1次隊2名、泉田、大河内、ABC入り)
2003.05.11 晴 (3次隊候補ABC入り)
2003.05.10 朝方小雪、曇りのち晴 (休養)
2003.05.09 晴れ 風やや強し (スケジュール決定・休養)
2003.05.08 晴れ 風やや強し (休養)
2003.05.07 晴れ 強風 (休養)
2003.05.06 晴れ 強風 (休養)
2003.05.05 強風 (休養)
2003.05.04 晴れ 強風 (休養)
2003.05.03 晴れ 強風(休養)
2003.05.02 晴れ雲多し (全員BC集結)
2003.05.01 晴れのち曇り (BC休養とABC集結)
2003.04.30 晴れ (一部ABC〜BC)
2003.04.29 曇り 時々雪 夜雪(B隊ABC〜C4)
2003.04.28 風雪 (停滞)
2003.04.27 晴れ (A隊 ABC〜C4)
2003.04.26 晴れのち雪 (自由行動)
2003.04.25 晴れ (安全祈願 プジャ)
2003.04.24 晴れ (自由行動)
2003.04.23 晴れ (C隊C1.5〜ABC)
2003.04.22 晴れのち雪降ったり止んだり (B隊C1.5〜ABC、C隊BC〜C1.5)
2003.04.21 晴れのち雪後曇り (B隊BC〜C1.5)
2003.04.20 朝強風雪のち 晴れ (A隊C1.5〜ABC、B隊 停滞)
2003.04.19 晴れ (A隊 BC〜C1.5、B隊 休養)
2003.04.18 晴れ (休養)
2003.04.17 晴れ後曇り (休養)
2003.04.16 (記録) 休養日
2003.04.15 (記録) ABCからBC
2003.04.14 (記録) C2からABC(6300m)へ
北澤隊員体調崩しカトマンズヘ下山
2003.04.13 (記録) C1からC2(6000m)へ
2003.04.12 (記録) BCからC1(5500m)へ
2003.04.11 (記録) ロングテ寺院安全祈願
2003.04.10 (記録) 自由行動
2003.04.09 (記録) 荷物整理
2003.04.08 (記録) ティンリーからBC(5100m)へ
2003.04.08 (速報) ベースキャンプ到着
2003.04.07 (記録)
ニェラムからラルング峠(5050m)を越えてティンリー(4400m)へ
2003.04.06 (記録) ザンムーからニェラム(3750m)へ
2003.04.05 (記録)カトマンズからザンムーに入る
2003.04.05 (速報)
−トレッキングの河野、森崎、藤野は帰途へ
−本隊はカトマンズを出発 コタリ着11:30
その後ザンムーに入って入国審査(樟木賓館泊)
2003.04.03 ボートナートの寺院で安全祈願
2003.04.01 ヤラピークよりカトマンズに戻る。
2003.03.29 (速報) ヤラピークベースを出発、カトマンズに向かう
2003.03.28 (速報) ヤラピーク登頂
登頂メンバー:雨宮、高畠、田中、小笠原、大河内、泉田、今野、
宮寺、北澤、鈴木雅、藤野、内田、藤村、前田
2003.03.21 ヤラピークに向けて出発
2003.03.18 出発
↑topへ 5月28日(水) 晴れ (カトマンズへ、ラサへ)
「イエティ同人2003年エベレスト登山隊」最後の朝も寒かった。
エベレストのBCに着てから50日間、一度も最低気温がプラスにならなかった不毛の地
(それでも少しは花が咲いた)。
早く去りたい気持ちと、懐かしい気持ちが交差する。
早朝、カトマンズに直行するグループとラサを1週間観光するグループと別れる。
ラサ組7人は6時15分にランドクルーザー2台にてBCを出発。カトマンズ組は7時にBCを出発予定。
6月3日に直行組とカトマンズで再会する事を楽しみに
(小原記)
↑topへ 5月27日(火) 晴れ (ABCに残っているシェルパ全員BC下山)
昨日、ABCに向かった荷下ろしのヤク53頭とABCに居るシェルパを待つのみ。
午前中、隊員とBCに居るシェルパとで外にブルーシートを敷いて、花見酒ではなく、
エベレスト見酒をして楽しむ。
夕方4時ごろから5時にかけて、ヤクとシェルパが次々とBCに到着し、全隊荷が
ABCから降ろされた。シェルパと隊員がそれぞれに労をねぎらいつつ、明朝BC撤収するため、
隊荷を整理した。
最後の夜とあって、コックのパダムたちお手製のパンケーキで登頂成功と全員の無事を祝って、
長いような短いようなエベレスト遠征の幕を閉じた。
(小原記)
=BCレポート=
5月27日は天気もよく、午前中はブルーシートを敷いてのんびりと花見ならぬエベレスト見
をしながら過ごした。各自チベッタンショップに行ったりして自由に最後のBCを終日ノンビリと
過ごす。
(前田記)
↑topへ 5月26日(月) 晴れ (BCにて反省会)
5100mでの飲酒は格別だったようで、午前中は寝袋から出られなかった者もいて、
昼食後に、時間をかけて反省会を行った。
3次隊を出せなかったことがメインテーマで、大分時間をかけたが納得できたかどうか。。。。
いつも、どの登山隊にでも起こる難しいテーマであろう。
その後は各人、チベッタンショップなどでくつろいでいた。
(小原記)
=BCレポート=
5月26日昼食後、今度は素面で反省会を開く。主に3次アタック隊がどうして
出せなかったかに集中した。
(前田記)
↑topへ 5月25日(日) 晴れ (ABCに残っている隊員全員BC下山)
ABCの隊員全員がBCに下山。小原はチベッタ4人に交代で背負われ、20kmを
約7時間30分で下った。
久しぶりに全隊員13名がBCに集まり、BCは遅くまで酒宴が続いた。登頂できた
美酒に酔う者。アタックできなかった悔しさに涙を流す者。なぐさめる者、長く苦しかった
エベレスト登山は終わったが、食堂テントは遅くまで明るかった。
(小原記)
=BCレポート=
5月25日全員下山してくるので午後中待つ。
メンバー全員がBCに揃う。夕食後、お酒を飲んで各自思い思いの話になる。
特に3次隊がどうして登れなかったのかという話になる。かなり酔いつぶれるものも出た。
(前田記)
↑topへ 5月24日(土) 晴れ (小原C4〜ABC)
小原C4からABCまで下山。他のメンバーはABCで休養。1次隊のシェルパはC6、C5の
テントなどの装備撤収に登っていって、手際よく作業をして下ってきた。これで下山の用意もほぼ整った。
小原の凍傷の程度はとても自力ではBCまで歩けないと言うアメリカ隊のドクターの見立てで
担ぐチベッタ4人、ポーター1人を雇うことになった。
(小原記)
=BCレポート=
5月24日ABCからメンバーが降りてくると情報あったため、午後中待つが一向に降りてこない。
4:00無線がABCと繋がった。小原さんの凍傷がひどく、歩けないため、チベッタン4人と
ポーター一人をつけて担がれて下山するとのこと。
アメリカ隊のドクターに見せたら、すぐカトマンズまで返したほうが言いといわれたとのこと。
しかし、本人の希望でメンバーと一緒に28日にザンムーまで降りたいとのこと。
兎に角BCに降りてから判断しようということになる。明日メンバー全員ABCからBCに下山とのこと。
(前田記)
↑topへ 5月23日(金) 晴れたり曇ったり (2次隊C6〜ABC、小原C6〜C4)
支援するシェルパの高所滞在が長期化することによる消耗も激しく、シェルパ不足から
3次隊が出せなくなった失望の中、2次隊登頂隊員はC6を後にした。
高畑、泉田、田中はABCまで下山。小原はC4泊まり。
(小原記)
=BCレポート=
5月23日サーダーがおなかの調子が悪いと言うことでダディンディとチベッタンのチョンビュと
一緒にBCまで降りてくるという。
中国隊のCCTVに最後のメール確認に行くのを降りてくるだろう時間に合わせて2:00ごろ
飲み物を持って前田が出かける(中国隊はモレーンの入り口近くにBCがある。しかしもう、
明日あたり撤収とのこと)。
モレーンの途中まで迎えに行くが姿が見えない。あきらめて4時ごろ引き返してくる。
5:30過ぎダディンディが来て、サーダーがモレーンの入り口付近で動けなくなったという。
雨宮とパダムで車の手配に行く。
車が迎えに行ったのに、どういうわけかサーダーが一人で休み休み戻ってきた。
8日間何も食べれなかったという。それでサミットとは。小原はC4スティ。
(前田記)
↑topへ 5月22日(木) 曇り時々強風
(2次隊C6〜登頂〜C6、3次隊ABC、フィリップABC〜BC)
アタック好天日という予報でどこの隊も早く動きだすので、当隊も11時起床。
小原、用足しにテントシューズにて外に出て、雪の急斜面を10mほど下降し用足し後、
登りに手袋が凍り、テントシューズが脱げ、急いでテントに戻ったが両手両足の指が
凍傷になってしまった。
小原、ダワを残し、田中、高畠、泉田、パッサン、ラクパ、ペンパの6人が2次少し前に
C6を後にした。ダワは一足先にC4に下山。小原も下山しようとしたが、天気が悪くなり、
C6にとどまった。
好天の予報がはずれ朝方から強風。それでもすごい人が頂上を目指し、渋滞の中、
11時45分、田中、高畠、その後泉田、そして3人のシェルパの6人が頂上を踏んでくれた。
しかし、下降が楽ではなかった。第2ステップで3時間の時間待ち。田中、高畠、ラクパが16時に。
泉田はパッサン、ペンパに付き添われ18時30分にC6に到着した。実に14時間と16時間30分
かかっている。
しかも雪目と凍傷にやられている。遭難寸前であった。全員C6泊まり。
かなり心配もしたがC6に全員着いたことでほっとして各テントとも喜びに沸いた。
(小原記)
=BCレポート=
5月22日2次アタック隊の登頂日ということで夜中12:40には無線の前で待機。まったく繋がらず。
しかし、大河内から、アタックのとき、BCの声は聞こえていたといわれていたので、1次アタックの
ときよりは気が楽。
2時まで待ったがやっぱりぜんぜん繋がらないので、取りあえず、アメリカ隊から借りたハンディ機を
雨宮が持って寝ることにする。
各自テントに入ってからすぐに高畠から無線が入る。小原がテントシューズをはいて大キジを打ちに
いって転んで凍傷になったとのこと。ダワと一緒に降りるとのこと。
アタックは田中、高畠、泉田の3人とペンパ、パッサン、ラクパの計6人でスイス隊とジョイントで
行くとのこと。朝起きて無線の前で待つ。連絡とれず。
BCからは頂上付近に雲がかかり見えない。天気はよくないようだ。
パダムがスイス隊は途中で引き返したということを聞いてきた。もしかして、2次アタック隊も一緒に
引き返したんだろうかと心配する。
田中の声で突然無線が入り「11:56頂上に立ちました。」
みんな元気とのこと。ネパール側から15人も登ってくるという。今日はラッシュらしい。
2時過ぎてもどこまで下山したか連絡なし。4時過ぎ、高畠、田中C6入りしたと連絡あり。
小原は降りていない。
C6に残っていたとのこと。ダワ一人で下山したという。泉田はかなり疲れていてペンパとパッサン2人が
付いて降りているという。6:30やっと泉田がC6入り。兎に角よかった。
C6にシェルパが入ったら、寝袋が1つしかないとのこと。ダワが気を利かせてC4まで寝袋を降ろしたという。
シェルパ3人で寝袋1つで寝るという。パダムに大丈夫だろうかと聞くと、大丈夫という。
本当にうちのシェルパは強い。フィリップABCからBC下山。
(前田記)
↑topへ 5月21日(水) 小雪のち晴れ・曇り
(2次隊C5〜C6、3次隊ABC、1次隊大河内ABC〜BC、フィリップABC休養)
2次隊は最終キャンプに向かう。C5から行動中の酸素吸引が認められる。2L/分吸いながら、
大勢に混じって岩稜を登る。
無酸素で喘ぐ者、酸素を吸いながらも前に足が出ない者、見た目にも素人と思える者などが
1本のロープに繋がって上へ上へと目指す。標高差500mを5時間かかってイエローバンドの下の
8300mのC6に到着した。
ここからはBCと無線が良く通じる。明日のアタックに備えて夕方6時、カップラーメンなどを食べて早く寝る
(小原記)
=BCレポート=
5月21日大河内はABCからBCまで降りてきた。
2次アタック隊はC6入り。3:30過ぎに高畠の声で「泉田さんが怪我をして酸素と手袋を
シェルパに持たす」という無線が飛び込んできた。
BCに緊張が走る。泉田が落石で頭を打ったとのこと。また、小原、田中もばてているという事で
酸素が必要だとのこと。
高畠は3:30に、後の3人は6:00にC6入り。酸素を吸ったら、3人とも元気になったという。
シェルパに隊員の様子を聞くと酸素を吸って元気だという返事。ひとまず安心する。
↑topへ 5月20日(火) 晴れ、時々強風
(1次隊C6〜登頂〜ABC、2次隊C4〜C5、3次隊ABC)
5/20 (火) 晴れ、強風 (spo2 92,心拍数 52)
0:44、ペンパテンジンの声で目が覚めた。別に寝る気はなかった。眠れなくてもいいと
思っていたが、いつの間にか寝ていた。寒い。寝袋から上半身を起こすが、出る気になれない。
時計を見ると−19℃と出ていた。起きた瞬間から頭は覚醒し、今日これから何処へ行くか
はっきりと理解できた。
隣を見ると珍しくフィリップが雪をとり水作りを始めている。行動中の水分補給はあまり
期待できないので、今のうちにたくさん飲んでおいた方がよい。お茶、ジュースの他にカップめんを
食べ、朝食とした。食後支度をしているとなんだかやる気が出てきて、あまり寒さを感じなくなった。
寝袋の中で暖めておいた新品の靴下をはいた。荷揚げの手違いでノースコルにデポしたままだった
これらの個人装備が昨日の夕方、寝袋とともに届いたときは本当にうれしかった。益々成功に
近づいたと思った。
結局夜のうちに風はやまず、かえって強さを増したようだ。でも、登る気持ちは弱くならなかった。
風と寒さにタイする不安は依然頭を離れなかったが、体調が良くスピード登頂の自信があったので、
数時間耐えられればそれでいいという考え方もできた。今日だけ、ほんの数時間だけ我慢すればいい。
またやる気が出てきた。
最後に酸素マスクを新しいボンベに付け替え、支度は終わり。後は外でアイゼンを付けるだけ。
羽毛ミトンの中に計画通りカイロを仕込んだ。手はこれで大丈夫。足の指、もってほしい。
2時半頃、外でシェルパたちの動く気配がしたのでいよいよだと私たちも外に出た。風が強い。
でもこれくらいなら大丈夫、出発できる。この程度はC4〜C5間のそれと比べたらそよ風だ。思ったほど
寒さも感じない。これならいける。でも、まだ出発しない。サーダーが中で得意のお祈りでもしていたのか
私たち2人と若手シェルパ2人は寒風の中30分位外で待たされた。3時20分ようやく出発。
空は晴れているようだが、月が無い。ヘッドランプの灯りの中、いいペースで進む。酸素は毎分3L使い、
辛さは全くない。稜線に出るまでの急登をフィックスロープに従いユマールを併用で登る。途中先頭の
ダディンディが速すぎるとサーダーに注意を受けていた。
出発から1時間半でC6から約300mの稜線に出た。この頃から明るくなりライトを消しゴーグルを用意した。
ペンパがたぶんサミットは7時くらいだろうと言った。そこから北稜を行く。頂上は益々近づいて見える。
見渡す限り目線の上に他の山はなく、しばらくは快適な歩行が続いた。
でも、私にとってのルートの核心は北稜だった。ここより上はまだどの隊もフィックスを張っていない。
はじめから困難とわかっている箇所、たとえば第1・第2ステップなどは毎年追加される残地があるが、
さほど重視されていない場所はかえって見過ごされているのか、ルート工作されていないと割と怖い
思いをする。
岩質ももろく、つかんだホールド、足を乗せたスタンスが崩れることもしばしばだ。落ちたらまず助からない。
実際急斜面で滑落したと思われるいつの時代のものかわからない遺体をいくつか見た。
危険な場面が続くので、シェルパがロープを取り出し登り始めたが、とてもコンテと呼べるものではなかった。
先頭と最後尾のシェルパがアンザイレンし、その間のロープに私たちがカラビナをかけハーネスの
メインからセルフをとるだけのものだ。しかも登る間プロテクションは一切とらない。これではもし一人が
ミスをすれば全員フィニッシュだ。これには僕もフィリップも困惑した。
所々出てくる古いフィックスロープも非常に頼りない。外皮がむけて中の芯も数本がかろうじて繋がっている
だけだ。支点も不安定でハーケンが抜けてぶら下がっているものもよく目にした。一般にルートの難所と
言われる第2ステップのアルミエイダーは、一度ペンパがトライしたもののあまり不安定なため一度降り、
次にフィリップが先行をかって出て全員難なく通過することができた。
その上の雪稜や岩稜も特に問題箇所は無かった。三角雪田を過ぎ頂上直下の岩場にさしかかる頃、
2次隊が私たちの姿を見たとABCかBCに連絡している声が入った。実は出発前、1時頃からこちらの無線には
声がバンバン入っていたが、送信しても通じないので歯がゆい思いをしながら無視して登り続けていた。
無線の声は三角雪田の通過を目撃し、頂上まで後1時間くらいではないかと言っていた。
途中堅雪の急斜面で空ボンベをデポし、レギュレーターを付け替え、頂上へ続く最後の稜線に出た。
先頭はペンバ、次がダディンディ、私、フィリップ、最後に少し遅れてサーダーがくる。頂上の手前は雪庇が
大きく張り出しているため一度西側に回り込んだ。ほんの数m先にどこかの国旗の残骸が見え、ペンバが
奇声を上げていた。
9:15AM登頂。メンバー全員と抱き合った後、無線で報告をすると、各キャンプから一斉に声が入った。
どの声がどのキャンプから送信されているかわかりかねたので、後はシェルパに託し、私はフィリップの
手を借りて各スポンサー向けの様々な旗の撮影を始めた。強風のためなかなか旗を広げられず、思い通りの
写真が撮れなかった。
取り残した写真は2次隊に任せることにし、先に頂上を下山したフィリップに続き、私も下り始めた。
40分ほどの滞在だった。頂上を後にしてすぐ直下の堅雪の急斜面でアイゼンの歯をかませ損ない
滑落してしまった。ピッケルをストックに持ち替えていたので止めることができなかった。幸いロープを
使っていたし、下はコル状になっていたので大事には至らなかったが、右肩を痛めてしまった。情けない。
その後はピッケルを使い慎重に下った。またあのフィックスの切れかけたもろい岩場を通過しなければ
ならないかと思うと少なからず憂鬱だったが、しばらく行くと状況は変わっていた。他隊(アメリカ隊)の
ルート工作のシェルパにより新しいロープが張られてあったのだ。これには本当に大助かり、
おかげで心配していた問題箇所も難なく通過でき、2時間弱でC6に付いた。
ここで初めて落ち着いてBCと無線ではなすことができ、今日中にABC、明日の3時までにBCまで
降りるつもりだと伝えた。空腹を覚えたので軽く食料を口にし、ダディンディとともに下り始めた。
酸素はまだ吸っている。C5が見える辺りから他国の隊が続々と登ってくるのが見えた。中国隊も
20人ほど連なり、明日の登頂ラッシュを予想させた。
何処でどういう風に知ったのか、大体の人が私たちの出発もしくは登頂を知っていて「success?」と
聞かれたり、「congratulation」と祝福されたりした。この状況はノースコル辺りまで続いた。
C5へは1時間半で着きお世話になった酸素とはここでお別れした。岩稜を過ぎ、雪稜になった頃、
C5へ登る2次隊と出会い、祝辞を頂き、スポンサーの写真取り残しの件を伝えた。ノースコルまで
1時間半。だいぶ足が重くなってきた。でもここには寝袋はじめ個人装備がいろいろあるので回収
しなければならない。
徐々に重くなる荷も手伝い、C4からの雪壁下りは疲れた。先ほどの滑落で右肩を痛め、
また上からずっと下降の際はロープを握っていたので握力も弱ってきていた。雪壁を下り、
雪原を横切りようやくアイゼンが脱げる。ほっとする瞬間だ。
頂上を見ると今やすっかりガスに隠れて何も見えない。早く降りてよかった。
ABCに着いてすぐCCTVのインタビューを受け、次に仲良くなった韓国隊に呼ばれた。
ビールで乾杯し食事までご馳走になり、すっかりリフレッシュしてしまった。軽くよっている自分を
自覚しながら再び帰路に就き、17:10ようやく私たちのABCの幕に帰ってきた。
まず、キッチンテントの前にいたギャルツェンさんが私に気付き、やがて全員が幕から出て迎えてくれた。
すぐキッチンに招き入れられジュースやお菓子、うどんを出してくれた。すでに満腹だったが、
全て手を付けた。もう下痢をしようが吐こうがかまうことはない。あらかた平らげた後、改めてサポートの
シェルパたちに感謝の意を込めて握手を求めた。全ては彼らのおかげだ。本当によく働いてくれた。
(大河内記)
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1時には出発すると言う1次アタック隊からの無線が入らず、2次隊はC4にて待機していたが、
8時過ぎ、望遠鏡にて三角雪田の下の岩峰に5人の人影を確認。
9時15分、「頂上に着きました」の大河内の無線が入る。大河内、フィリップ、ペンパ・ツェリン・サーダー、
ペンパ。テンジン、ダディンディの5人はチベット側、ネパール側合わせて、今年度初登頂、
しかもエベレスト初登頂50周年の年の第1号登頂者となったのだ。
(このニュースはすぐに世界中に発信されたそうだ)
登頂を知って2次隊員4人(小原、田中、高畠、泉田)はC5に向かった。風強く、寒く、
完全装備するも、手先冷たい。今日もすごい人が繋がっている。雪稜終点(7500m)までに
5時間半近くかかった。
ここから急な岩稜となる。すぐ上で泉田が頭に落石を受け、3時30分にC5に着いていた高畠に
無線連絡してシェルパに酸素を持ってきてもらうハプニングがあった。小原も田中もこの地点より
酸素の供給を受けた。
C4〜C5は長い。16時30分疲れたが全員C5に(7800m)到着した。
(小原記
=BCレポート=
5月20日1時にみんなで起きて無線の前で待つがうんともすんとも言わない。2時30分まで
待ったが通じず。外でエベレストを見ると風が強い。あきらめて寝る。
朝、隣のアメリカ隊のシェルパ、ペンバが望遠鏡で頂上を見せてくれる。自分たちのシェルパの
前を日本隊が登っているという。私達の無線は通じず。アメリカ隊の無線では上部のシェルパと
話をしている。
そのうちにパダムが望遠鏡をのぞきながら、「バラサーブ、頂上にみんなが居る」と大声で言ってきた。
そしたら、大河内の声で突然「大河内です。今9時15分、頂上に立ちました」とはっきりと無線が入ってきた。
もうBCに居る全員が「やったー!!」と、近くにいる人と抱き合った。
10分もしないうちに車で記者が15人以上集まってきて、誰が登ったのかと聞かれ、大騒ぎになった。
一体どうして知ったのか。。。。。
何でも、CCTVのカメラが頂上を捕らえていて分かったとのこと。
乾杯をする暇もなかったので、記者が帰ってからみんなで乾杯をした。
(前田記)
↑topへ 5月19日(月) 晴れ(1次隊C5〜C6、2次隊C4、3次隊ABC)
朝6時のサーダートの交信で1次アタック隊員2人とサーダー、テンジン、ダディンディは
C6に入るとのことで、2次隊はC4に向け出発する。C4に残った泉田は2次隊と合流して
アタックすることに決定した。
22日がアタックのピークのようで、今日のC4へのルートはすごい行列だ。
アタック隊員順調に前進し、登頂体制は整った。
(小原記)
=BCレポート=
5月19日はいつもより穏やかな天気。10時過ぎまで風がなし。
無線も殆ど入らず。定時交信も通じず。
1次アタック隊がC6入りしたとのこと。いよいよ明日アタック日。
午後中国隊へEメール受信を見に行く。
夜のC6との無線交信、鮮明に入り明日は夜中の1時に起きて交信することにする。
(前田記)
↑topへ 5月18日(日) 晴れ 強風 (1次隊C4〜C6、2,3次隊ABC)
相変わらず時々の強風だが、フィックスのメドがたち、アタック隊はC5に向かった。
C4から上の雪稜は想像以上に風が強く、泉田は途中でC4に引き返した。
上部に向かった大河内、フィリップはC5に辛うじて到着したが、助けを呼ぶ無線に
一時各キャンプは騒然となった。
1次アタック隊の3人は無事ではあったが、二つに別れ、シェルパの故障者も出て、
3次隊は出せるか難しくなってきた。とにかく混乱の1日だった。
(小原記)
=BCレポート=
5月18日は午前中に雨宮、前田、ジットで中国隊に行ってEメールが借りられるか交渉に行く。
ついでに、ドクターに今日、一人シェルパが降りてくるので見てもらいたいと話してくる。
中国隊のCCTVの人たちはみんな親切で助かった。
2時ごろ急に無線が入り、大河内の声で「助けて動けない、とても風が強いので」と入るが、
そのあと無線が通じない。C5を呼ぶがダメ。ABCを呼ぶが通じない。。C5を呼び続ける。
大河内から「自力でC5のテントにたどり着いたとのこと。風が強く、体が浮き上がり、
大変だったとのこと。兎に角何事もなくてよかった。
そのすぐ後でミンマがフラフラになりながら降りてきた。かなり調子が悪そうだ。
のどが痛く声も出ない。血痰も出ているという。少し休んで中国隊のドクターに見せに行く。
この状態が続くと命に関わるといわれ、その日の夜に車の手配をしに行く。
ザンムーまで700USドルとのこと。前金現金でとのことだった。
夕方の無線でC5と交信。大河内、フィリップはC5入り。泉田、風のためC4に引き返したとのこと。
明日C5に入りたいという。雨宮と泉田で話している最中にC4との無線が不通になる。
その後はC5経由で話す。
今日も上部キャンプでシェルパたちがマッチ、ライターがないと無線が入る。パダムに大丈夫かと
聞くと大丈夫と答える。1日無線の前から離れられない日だった。
(前田記)
↑topへ 5月17日(土) 晴れのち雪 (1次隊停滞、2,3次隊ABC)
朝5時、エベレストが金色に輝き、今日の好天を約束してくれた。が、リーと工作について
トラブル発生。他隊のシェルパらと上部のルート工作をやる予定が、連日の思わしくない天候で
他隊のシェルパが上がって来ず、アタック隊のC5入りは1日延期となった。
高畠がスイス隊に何度も出掛け、明日上部ルート工作をやるよう交渉、何とか話はついたようだ。
ミンマ、のどをやられABCに下山。シェルパの疲労もピークに達しているようだ。
夕方、BCの雨宮隊長から手紙が届き、ABCと直接無線が繋がらないもどかしさと、Eメールが
使えなくなったことが伝えられた。夕方から夜にかけて雪、夜中に止んだ。
(小原記)
=BCレポート=
5月17日は朝6時交信のため起きる。しかしはっきりは繋がらない。時々切れ切れに交信できる。
C4経由でABCからごみを降ろすためポーター2人が降りてくること。ミンマが明日、調子が悪く
BCに降りてくることなど話す。(ごみ降ろしポーター代一人50元)
ヤクの手配にパダムと雨宮が手配氏のところに言って話す。2日遅くなり26日にABCということで
話が成立。上部キャンプでシェルパたちがマッチ、ライターがないと無線が入る。
(前田記)
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快晴なるも、時々突風。1次アタック隊員3名出発し、3度目の正直でやっとC4に落ち着いた。
昼ごろ、急に大テントの天井が4mほど裂けたが。シェルパたちがポールを倒し手際よく縫って
直してくれた。
今日は上部はC5にテントを張り、シェルパ6人泊まる。C6予定地には酸素など運んだそうで、
着々と準備は整っている。
ヤクの手配を2日の延ばす件もBCとやっと連絡が取れてOK。これで3次隊も可能になった。
今夜は満月、無風、すばらしい夜となった。ネパール中のお寺でお祈りがあるらしい。シェルパらが
信じているラマ暦によると、明日から登山日和となるらしい。
(小原記)
=BCレポート=
5月16日に突然無線交信が出来る。C4からだった。1次隊がC4に上がったとのこと。
ABCとも交信が出来た。
ヤクのABC入りを2日遅らせてほしいとのこと。交渉するということでOKを出す。
1次隊もABCを出発したとのこと、アタックが始まったとほっとする。
前田がBCに戻ったので、インターネットが旨く作動しなくなったのをいろいろ作業したが、
どうしても通じず、あきらめていたところ、そんな時、中国隊のCCTVの韓氏が無料で
Eメールの送受信をしてくれるという。
本当に親切で助かった。なにせ、スイス隊ではEメール1回に付き10USドルをとる。
これで、ネパールのコスモや日本に情報を送ることが出来る。ただ、中国隊のBCまでは
片道20分はかかる。前田が朝晩2回毎日通うのはチョッと大変。。。
(前田記)
↑topへ 5月15日 (木) 晴れ (小笠原、前田ABC〜BC、アタック隊停滞)
朝、小笠原が調子が悪いため今日BCに降りたいと話があり、小笠原、前田二人でBCに
下りる事にする。チベットポーターの一人も調子が悪く降りるという。
また、もう一人、ABCからBCに米30kgを下ろすため降りると言うので4人がBCに行くことになる。
9時45分みんなの見送りを受けて、ゆっくりと無理せず下る。
C1を過ぎて平らなモレーンのところまで来ると、今までの風景とは一変していた。高かった
モレーンが低くなり、そこここに氷河湖が出来ている。
少しの間にこんなにも融けたのかと感心してしまった。やっぱり、ここはモレーンなのだと改めて
思った。7時間かかってBC着。
(前田記)
=晴れ時々強風 (ABC停滞)=
ABCは今朝も快晴で時々突風。小笠原、前田、名残り惜しそうにBCに下って行った。
1次アタック隊、大河内、泉田、10時過ぎに出発する。しかし、上部から無線連絡が入り、
強風のためC5のテントが晴れないのでアタック隊もABCで待機したほうが良いということで、
二人共に引き返すことになった。
これで3次アタックの可能性は殆どなくなった。ヤクの手配を遅らせるしかないが、BCと
無線連絡が取れないのがもどかしい。
サーダー、ミンマ、テンジンの3人、C4に上がっていった。
(小原記)
=BCレポート=
5月15日に小笠原、前田がBCに戻る。それまでまったく連絡が途絶えたままだった。
無線交信があるだろうと、無線の前での待機はしても本当に、うんでもなければすんでもない。
(前田記)
↑topへ 5月14日 (水) 晴れ 強風 (アタック隊 停滞)
快晴で時々突風が吹いていたが1次アタック隊員は出発の準備をしていた。
だが、C4は強風のためC5設営が出来ないとの事でアタック隊員もABC停滞となった。
これで18,20,22日となり、3次隊の余裕がなくなった。
ものすごく良い天気なのに風が恨めしい。
(小原記)
↑topへ 5月13日(火) うす曇のち晴 (アタック隊員、全員ABC入り、雨宮隊長はBC)
珍しくうす曇の朝、寒い。
いよいよアタック隊員が出発である。CCTVが出発風景を撮りたいということで雨宮隊長の
見送りを受けて6人並んで出発する。
BC7時30分出発。標高差1200m、距離20kmは高度順化出来た体にもつらい。
10時間掛けてABC到着した。
約半月ぶりのABCは以前に比べると、大分殺風景になっていた。暴風のためテントの数も減り、
我が隊も使えるテントは上部に荷揚げ、その跡に大きな古い三角テントがデンと据えてある。
ここに男性隊員10名とシェルパ3人がで寝るのである。
本日、順化不十分のものがC4(7000m)タッチに挑戦した結果、内田が3次アタックメンバーに
決まった。あとの3人は本当に残念だが後方支援に回ってもらうしかない。
夜、サーダート打ち合わせ。
酸素マスクの数(9個)の影響でアタックは1日置きにしかできないので、17、19、21日になる
ことになった。アタック後にそのマスクを次隊に回すしかないのだ。
(小原記)
C4ステイするために登ってきた4人に、朝食事のときに、「シェルパの作業のため、
C4スティは中止C4タッチになった」とサーダーから伝えられる。未だC4スティしたことがない
小笠原、前田。すでにC4スティした事のある内田、今野。前田はかなり疲労しているため、
ABCで休養することにした。
3人はC4タッチのためそれぞれ9時前後に出発。それぞれ2時30分前後にC4到着。
タッチしてABCに戻った。
(前田記)
↑topへ 5月12日 (月) 晴 (1次隊2名、泉田、大河内、ABC入り)
今朝も無風快晴。陽射しの強さを感じる。頂上の風向きも少し変わったようで、東向きに
雲がたなびいている。天候変化の兆しか?
7時1次隊の泉田、大河内、予定1日早くABCに出発し、午後2時過ぎには元気に到着。
夜、久しぶりにに無風。静かなBCだ。
(小原記)
ABC入りしていた4人は休養日。この間の暴風の話をシェルパから聞く。何でも、夜中の2時ごろ
突然激しい風が吹き、テントが飛ばされ、中に入っていた各隊員の荷物がそこら中に散乱。
それをすごい風の中、シェルパが荷物の回収をしたとの事。また、シェルパのテントが突然宙に舞い、
あっという間に他の隊のテントの上に落ちたとの事。すごかったと。
それを物語るように、回収した靴や服などが何個かの砂納袋に分かれて入れてありました。
誰のか分かるものそうでないものに整理して過ごしました。
(前田記)
↑topへ 5月11日(日) 晴 (3次隊候補ABC入り)
エベレストは雲ひとつ無く晴れ渡っている。風も殆ど無い。
7000mの純化が不十分な4人(小笠原、今野、前田、内田)は再度C4に挑戦すべく
朝7時前後にABCに向け出発した。この中から一人だけ3次アタック隊に選ばれる。
残酷だがそれがエベレストの厳しさだろう。
早朝、中国テレビ(CCTV)のエベレスト登頂50周年記念番組のBCからの生中継に
出演するため、雨宮隊長、高畠、フィリップ、宮寺の4人が中国隊キャンプに出掛け、
日の丸を振り、宮寺がハーモニカを吹いて喝采を博した。
(夜、早速、CCTV見たと言う日本からのEメールが届いた)
午前中、隊長とアタック隊員全員でアタック日についてディスカッション。1次隊員と
他の隊員との間で9日に決めたアタック日に対する受け取り方に相違があり、かなり、
真剣なやり取りがあった。
1次隊が予定通りでないなら、2次隊が先行していくまでという発言があったが、
そこはチームワークの良さ、17,18,19日と1〜3次隊が今までの順番通りアタック
することに決まった。明後日13日に3隊一緒にABC入りする。
夕方5時前後に朝出発した4人が前後してABCに到着した旨、無線が入った。
ちょうど10時間かかっているが、約1ヶ月前に3日掛りでABC入りしたのに比べれば
大変なことだ。だが、疲れただろう。
(小原記)
ABC入りした4人はキッチンテントで夕食を取る。前田がかなり消耗が激しく夕食が
食べれない状態。食事後、それぞれ大きな中国製の古いテントでシェルパと一緒に眠る。
(前田記)
=BCレポート=
5月11日に隊長を残して隊員12名がABCに向かった。BCに残ったのは雨宮、パダム、
ジットの3人。
隊員がABCに行ってからどういうわけか無線も通じなくなり、インターネットも使えなくなる。
まるで陸の離島になってしまったBC。
(雨宮記)
↑topへ 5月10日(土) 朝方小雪、曇りのち晴 (休養)
朝方の雪がうっすりと積もりビックリする。無風で暖かく、すぐ融ける。
1次アタック隊、天気予報収集のため、未だ出発しない。
BCのはずれにチベット人が小屋掛けし、そこで飲食物を出したり、簡易宿泊も出来る
一画がある。天気待ちや休養の隊員、テントを強風で無くした者達が結構利用している。
九州の山下隊はここでテントを借りて宿泊している。また安村隊もキッチンテントを
建て直す間利用していた。料金も良心的で我が隊員も大分利用し、馴染みの店も
出来ているようだ。
これもエベレストBCならではの風物であろう。(チベッタンビール7〜8元、バドワイザー缶
10元、バター茶1ポット7〜10元、ジャガイモ1皿10元あるいはサービス)
(小原記)
↑topへ 5月9日(金) 晴れ 風やや強し (スケジュール決定・休養)
快晴。エベレストに雲なし。しかし、9時ごろより風が出てくる。
朝食後サーダート共に一気に今後のスケジュールが決まった。
アタック日を15,17,19日か17,19,21日とする。25日ABC撤収。26日BC撤収。ザンムー泊、
27日カトマンズ着。
1次アタック隊、泉田、フィリップ、大河内。明後日11日出発、ABC入り。
2次隊、小原、田中、高畠。明々後日12日発、ABC入り。順化不十分の小笠原、内田、今野、前田
は11日にABC入りしアタックの合間を見て高度順化のためC4入り。
3次隊、藤村、宮寺は14日ABC入りとなった。なお、順化不十分組の中から調子の良いもの1名を
3次隊に加えることも決定。いよいよ本格的にとなった。
サーダー、ミンマ、テンジン、ABCに上がっていった。
(小原記)
↑topへ 5月8日(木) 晴れ 風やや強し (休養)
6日ぶりに静かな静かな朝。しかし冷えた。テント内−9℃。隊員も朝早くからうれしそうに
シュラフを干していた。しかし時と共に風が出だし、エベレストも雲に隠れた。
昼、朗報あり。サーダートC4に登ったシェルパと無線が通じC4のテントはシェルパテントが
1張り飛ばされたが、隊員テントは無事のようだ。
ABCで使用するシェルパ用大テントがレンタルできることになった。その他、スノーバーや
ロープ等は購入した。
16日〜25日まで好天予想とかで、他隊は大分動き出したようだ。
(小原記)
↑topへ 5月7日 (水) 晴れ 強風 (休養)
エベレストにへばりついていた雲は見えないが相変わらずの強風。
朝食後、サーダーらが来て打ち合わせ。シェルパの個人装備が相当飛ばされているので、
隊員も出来るだけ個人装備を供出することにした。
テントはやり繰りしてC6−2、C5−1、C4−2張りとし、アタック3パーティ9人出せそうで
一安心する。後は天気待ち。夜、できるだけあちこちから天気予想を集めるよう隊長より指示あり。
(小原記)
↑topへ 5月6日 (火) 晴れ 強風 (休養)
今日で丸4日。毎日同じ強風が荒れ狂い衰えることを知らない。
サーダーとミンマが午後BC入り。サーダーの話によると、高所用テントは1張りしか残されていない
とのことで、これとABCのテントでどうにかやり繰りするか。
また、C1.5の隊員テントも無くなたそうだ。
ともかくこの天気は未曾有のものらしく今後の予想も付かないようだ。
(小原記)
↑topへ 5月5日(月) 晴れ 強風 (休養)
今朝も、西の風がエベレストに叩きつけ、雲がネパール側に勢い良くたなびいている。
時々突風がテントをゆする。
今日の突風は今まで以上に厳しく前と後ろから襲い掛かり、我々のテントも6つばかりやられた。
ともかくすざましい。太いポールが折られるのだ。今日もなすすべなく待機。午前中、田中隊員が
無線アンテナを直したが依然としてABCと通じず、心配だ。
夕方、安村隊の無線を通じて上部の情報が入った。ABCとC4のテントが大分やられたというのである。
その後、ABCよりシェルパのテンジンが伝令で降りて来て詳しい情報が分かった。
昨日、ABCのキッチンテントと食堂、隊員、シェルパテント5張り潰される。荷物は無事。
C4のテント3張り、荷物ごと飛ばされ方向不明とのこと。C4テントは少し窪地にあり、スノーバーで固定し、
太いロープでがっちりつないであったので、まさか飛ばされるとは信じられない思いだ。
想像を絶する風力だったのだろう。それにしても物的被害は大きい。
ただし、人的被害はゼロは不幸中の幸いだった。明日サーダーが降りてくるとの事で更に詳しいことが
分かるだろう。
高畠、フィリップのテントがつぶれ、2人はチベッタンの簡易宿泊所に泊まった。後の人は風の中何とか
テントを修復した。
チベッタンの簡易宿泊所は寝袋持参で1泊25元≒375円とのこと。
(小原記)
↑topへ 5月4日(日) 晴れ 強風 (休養)
明け方、吹雪となりびっくり。すぐ止んだが、風は止まらず。入り口のチャックが風で壊れる
テントがでたりで、大騒ぎ。フィリップはエベレストの頂上は風速100mだろうという。
突風で近くの隊のテントが幾つかつぶれていた。
毎日何も出来ず、食っちゃね、ばかりで体が心配になる。
夕食、てんぷら、おいしい。皆良く食べる。
(小原記)
↑topへ 5月3日(土) 晴れ 強風(休養)
狂ったように1日中エベレストから強風が吹き降ろしていた。強風のため外では何も出来ず
隊員は砂埃1杯のテントの中でただじっと居眠りするか、読書するかしかない。
幸い、寝袋の中に入っていれば寒くない。
(小原記)
↑topへ 5月2日(金) 晴れ雲多し (全員BC集結)
エベレストは雪煙にたなびき、上部はかなりの強風のようだ。
中国と欧米系のエベレストBC見学ツアーが訪れ、写真を撮りながら歩き回っている。
ABCから高畠、泉田、藤村、宮寺、内田の5人が下山し、これで13人の隊員がBCに集結した。
充分体を休め、アタック体制に入るのだ。
休養のためには食事が欠かせない。わが隊には2人のコック、2人のキッチンボーイがあり、
BCとABCに1チームずつ常駐している。皆、日本語を話し、日本料理が旨い。
昨日も今日も「付けうどん」が出たし、その他、すき焼き、酢の物、野菜炒め、胡麻和え、オムレツ、
てんぷら等、高所で沸点が相当低い(60℃位か)中、圧力釜を駆使したり、繰り返したりし
火を加えたりしながら、色々な料理を作ってくれる。
隊員の誕生日にはケーキまで作って祝ってくれるのもうれしい。こういう縁の下の力持ちがいてこそ、
登山も成功するのであろう。食べすぎには注意しよう。
(小原記)
↑topへ 5月1日(木) 晴れのち曇り (BC休養とABC集結)
入山とあまり変わらないような寒いBCだ。エベレストも真っ白。
パソコンを開くと色々なニュースが飛び込んできた。4月27日に新型肺炎による死者続出により
中国入国禁止令が出されたことは、明日BCに来る予定だった「風の旅行社」のツアー中止と
庄司隊員の入山不可能につながり残念だった。今後の登山活動には影響ない。
各人にたくさんのメールが届いた。大いに今後の励みになるだろう。
朝、ここBCに沢山の男女子供たちの清掃集団が来襲し、きれいにごみを拾っていった。
これで登山前に預けたUS$500は戻ってこないだろう。
大河内、今野BCに下山。上部隊員5人もABCに集結、明日BCに下山する予定。
(小原記)
↑topへ 4月30日(水) 晴れ (一部ABC〜BC)
久しぶりに暖かく穏やかな朝を迎えた。
全員6300mに丸10日滞在し、この高度では限界近いので随時BCに下り休養することにする。
今日下るメンバーはフィリップ、小原、田中、小笠原、前田の5人。
他の者の動きは各人7000m順化登山に励んだ。
12日ぶりのBCはまったく春の気配なく、ABCと同じ寒さでびっくりする。
高畠、宮寺はC4に2泊目。泉田、藤村はC4に宿泊のためABC発。
今野、内田はC4よりABCに下山
(前田記)
↑topへ 4月29日(火) 曇り 時々雪 夜雪(B隊ABC〜C4)
今日は各人活発に動いた。絶好調のフィリップはABCから7500mを往復、大河内は
C4から7500mを往復してABCへ、小原、田中はC4から少し高度を稼いでABCへ。
7000m順化登山B隊ともいえる高畠、宮寺、今野、内田、小笠原、前田もC4へ向かった
(小笠原、前田は途中下山)。
雨宮隊長、ABCよりBCへ向かった。2〜3人を除き、順調に高度順化しているようだ。
最近、隊員間にヒマラヤセキが蔓延している。
(小原記)
↑topへ 4月28日(月) 風雪 (停滞)
今までで初めての朝からの荒天。少し高度を稼いでからABCに戻る予定を変更して
小原、田中はC4スティ。泉田、フィリップ、藤村はマットレスが無くて眠れないといって下って行った。
ABCから大河内が独りでC4入り。
7000mでの食事は、味付けα米(袋に入れたまま湯を注ぐだけでは良く戻らなかった。
ボイルドすれば旨く食べられそうだ)、インスタント安倍川もち(簡単に戻り美味)とインスタント味噌汁で
結構足りた。
(小原記)
ABCでは高畠、宮寺、大河内がC4に行くために準備。天候が悪いため、C4の様子を確認してから
出発をすることにした。朝の連絡ではC4全員スティとの事。C4は6人が泊まれるため、
大河内のみC4へ出発。高畠、宮寺は停滞とする。
10時過ぎ、泉田から連絡があり、「これから、泉田、フィリップ、藤村が下山」と伝えてきた。
ローティションもあるので急に予定を変更すると隊全体にかかわってくるし、下ってくる人に
何かあったのだろうかと、雨宮隊長は隊のことや下ってくる人の心配していた。
下ってきた3人はちょっと疲れた様子だが何も無く良かった。
(前田記)
↑topへ 4月27日(日) 晴れ (A隊 ABC〜C4)
いよいよ今日からC4(ノースコル)にスティして7000mに順化する登山が始まる。
A隊メンバーは泉田、フィリップ、藤村と小原、田中、小笠原の6人(小笠原は不調のため途中下山)。
6550m〜7000mまで全面フィックスしてあるとはいえユマール、ピッケルを使う全身運動は
なかなかの重労働。息も切れる。
ノースコル(7000m)のテント場は雪稜沿いに作られ、我々のテントは一番奥(C5寄り)に
3つ張られていた。7000mの初日はさすがに息苦しかった。寝袋(隊用)良く、寒さは感じなかった。
他の隊員は自分の高度順化に合わせ、C4の途中まで行動するもの、ゆっくり休養を取る者、
それぞれだった。
(前田記)
↑topへ 4月26日(土) 晴れのち雪 (自由行動)
明日からいよいよ7000mへの順か登山に入るので、今日は自由行動。
上部にチャレンジする者、のんびり休む者、様々。
(小原記)
↑topへ 4月25日 (金) 晴れ (安全祈願 プジャ)
大分暖かくなった感じ。午前中、「プジャ」というシェルパにとって大事な登山安全祈願祭を行った。
高い石積みの塔の上に国旗を立てて、旗を四方に張り、食堂内には祭壇を作り、サーダーが
手作りしたお供えや写真を飾り、本格的なお祭りが行われた。
サーダー・パンバ・ツェリン・ラマのぢ今日により、室内外の催しが執り行われた後、室内で隊員、
シェルパ、来客合同で宴会が催された。日本酒、ビール、チャンが振舞われたが、幸い倒れるものは
いなかった。プジャの後、高度順化、体ならしに上部に向かう熱心な者もいた。
(小原記)
↑topへ 4月24日(木) 晴れ (自由行動)
1日良い天気。各人、高度順化に向かう者、休養を取る者、思い思いにすごす。
(小原記)
↑topへ 4月23日(水) 晴れ (C隊C1.5〜ABC)
エベレストの朝は大抵やさしい。風もなく、5時半ごろより明るくなり、6時ころにはテントを暖める。
テントの内側は霜がビッシリ。下手に動くと顔に霜が降る。下が解けるのをジッとシュラフの中で待つ。
7時、モーニングティが各テントに運ばれ、シュラフの中で熱い紅茶を飲む。至福の時だ。
8時朝食。そして今日の1日が始まる。A隊有志、フィックスロープに挑戦。取り付きまでは
モレーンのガラガラ道を約1時間登り氷河取り付きにて(6450m)、ハーネス、アイゼンをつける。
氷河上を約40分歩いてフィックス取り付き(6550m)となる。
フィックスロープは登り降り2本張られているが、8〜9mmの工事用ナイロンロープで心もとないが
仕方がない。100m」ばかり登って今日は終了。順化途中では、下りも辛い。
C隊、ABCに夕方到着し、これで隊員13名がそろった。
夜はすき焼きパティー
(小原記)
↑topへ 4月22日(火) 晴れのち雪降ったり止んだり(B隊C1.5〜ABC、C隊BC〜C1.5)
A隊はタクティクス通り高度順化出かける。氷河上6500m付近までで引き上げる。
B隊の5人は午後から次々と到着。
C隊の高畠、内田、大河内はC1.5入り。
色々な思いを胸にもっとも大事な第2回目の高度順化登山に向け発信を始めた。
コンディション調整の失敗は自分に跳ね返ってくる。
(小原記)
↑topへ 4月21日(月) 晴れのち雪後曇り (B隊BC〜C1.5)
ABCは昨夜の風で折角のトイレも倒壊。午前中、テントの補強をしたりトイレの作り直しで
シェルパは忙しい。石積みの立派なトイレが完成した。隊員は高所用個人装備の点検と休養。
ノースコルのキャンプ地が良く見える。それを目指してフィックスを使って続々と登っている。
本番間近かというところ。
夕方、他隊のトランシーバーでやっとBCと連絡取れた。本日、高畠がカトマンズからBC入り、
B隊は雨宮、今野、藤村、前田、宮寺の5人、C1.5入り。とのこと。
(小原記)
B隊は5時モーニングティ、6時朝食。出発。
内田は風邪を引いたといって今日は停滞。大河内も未だおなかの調子が戻らないため停滞。
雨宮隊長は一足早く出発。後の4人は三々五々出発。やはり、1回でも通った道は予測がつくので
歩きやすい。長い長いモレーンを歩き、C1への急なのぼりを登り、今にも落ちてきそうな
石を見ながらC1.5へ。
隊長がいるのでABCから、ギャルツェンが食事を作りに降りてくる。私たちと一緒に登ってきた
キッチンボーイと一緒に夕食の支度をしてくれた。何と、本当はC1.5は自分たちで自ら作らなくては
いけないのだが、今回はバラサーブ(隊長)と一緒ということの特典?でテントにいながらにして食事が
出来るということになった。朝も、モーニングティ付き。
(B隊前田記)
↑topへ 4月20日(日) 朝強風雪のち 晴れ (A隊C1.5〜ABC、B隊 停滞)
明け方より降り出した雪がテントを叩くようになり積雪3cm。風も強く、冬用衣服も身に着けていない
ので寒い。カップラーメンを食べて待機。8時に雪やみ空も明るくなり、ヤクも出発準備を始めたので、
我々も出発を決める。
大河内が腹痛のためBCに下山。
ミラクルハイウェイをひたすら巡る。前回のように先が見えないのとは違うので精神的に楽だ。
C2から先は6000m台。急に苦しくなったようでやはり自分に体は未だ6000m台に順化して
いないことを実感する。ABC(6300m)に2時30分、5人集結。前回の3分の2の大幅
タイムアップだが、物足りない。
約1週間ぶりのABCは各国隊のテントで大賑わい。我々のテント村も立派になった。隊員用の
食堂もトイレも立派になった。しかし、無線は依然通じない。他隊の無線によりBCのB隊6人は
今日は行動せずとのこと。
夕食、広い食堂テントに5人は寂しく寒い。マットは氷のように冷え切り、天井は霜のスターダストが
キラキラしている。ふと顔ぶれを見ると皆ヒマラヤの経験者ばかり。平均年齢57歳。今の所、
経験のほうが若さを上回っているようだ。夜、吹き下ろしの突風一晩中。
(小原記)
B隊は朝起きたら、雪。サーダーが今日は休養日。上には行かないという。あきらめて食事をするが、
見る見る雪が解けてよい天気。
サーダーに上に行かないか?と聞くと今日は休養日。とニコニコして答える。仕方なく、みんな早く
上に行きたいのを我慢して一日を過ごす。午後になって、大河内君が降りてきたのでびっくり。
話を聞くと腹痛でとても登るのは無理なので降りてきたとの事。
途中、韓国隊の人と一緒になりゆっくり一緒に降りてきたとの事。
(B隊のみ前田記)
↑topへ 4月19日(土) 晴れ (A隊 BC〜C1.5、B隊 休養)
今日から第2回目の高度順化登山。ABCに10日間滞在し、7000mの高度に体を慣らす。
順化に個人差があるので2隊に分けた。
A隊はL.小原、フィリップ,泉田、田中、小笠原、大河内の6人。
9時、6人全員、各人、個装・シュラフを担いでBC(5100m)を後にした。他国の隊員の動きも活発だ。
A隊の高度順化は順調なようで、C1.5(5700m)には5時間弱で全員終結した。
前回の3分の2くらいのタイムであろう。しかも楽。
ここを整地し、テント2張り張って落ち着く。ここはBC〜ABC間の中継キャンプ地で、
今後はC1、C2をなくしてここからABCに入る。
場所は狭く、水は氷河の氷を溶かして作る。氷はポーターが取ってきてくれるが、各テントで
これから湯を作りインスタントスパゲッティで腹ごしらえ。何とか食べられた。夜、強風。
なお、B隊は明日出発予定。終日無線通じず。
(小原記)
↑topへ 4月18日(金) 晴れ (休養)
朝、8時半、ヤクが集まり出しにぎやかになった。約1.5トンの荷物を40頭近くのヤクにつんで、
1時間半後にABCに向かっていった。
サーダー昼ごろ降りてきて隊員は明日と明後日にずらして、C1.5を使ってABCに上がることに決定。
気候の変化が見られた。ロンブク谷に午後から雲がわき上昇気流の発生が見られた。
早く暖かくなってほしい。
(小原記)
↑topへ 4月17日(木) 晴れ後曇り (休養)
朝の内は快晴。無風。昨日の降雪でエベレスト北壁は真っ白。BC脇のロンブク氷河からの
川の水もだいぶ流れてきたので洗濯をする。川の水は氷水で指先がしびれたが、乾くのは早い。
風冷たいが日差しは結構強い。
インターネット繋がらず、ABCのサーダーとも15日から無線繋がらずで困っていたが、
サーダーとは夜繋がり、明日BCに降りてくるとのこと。
まだ、大分残っている。酸素など上部使用の荷物は明日ヤクで上に上げることに決めた。
(小原記)
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ランタン谷からずっと一緒の大久保、鈴木雅子さんが帰国。
中国時間とネパール時間の食い違いから二人は朝あわただしく迎えの車で戻っていった。
BC入りしてから今日が一番天気が悪く(エベレストは雲に覆われ、強冷風が吹き荒れた)
休養日としてうってつけだった。
(小原記)
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ABC2泊の予定を変更して今日メンバー11名全員BCに下る。シュラフ以外の
個装は各自で背負う。
8時頃より下り始める。朝日に輝くノースコルへの雪壁には昨日よりルート工作が
始まったようでシェルパが今日も3人取り付いていると指差すけど、私には見えず。
登山初期段階では高度順化の差が歴然でこの長いコース(約20km、高差1200m)
でははっきりと時間に現れた。先頭はBCに2時着。最後尾は6時40分着であった。
(小原記)
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9時に食テンに入ってきた北澤隊員が急におかしくなった。うつろな目、ろれつが
回らなくなり、立てなくなる。急遽BCに下ろす事になり、ポーターが背負い、雨宮隊長、
高畠マネージャーが付き添ってBCに下ることになった。10時に出発していった。
本体は30分後、小原隊員をリーダーにして上部ABCに向かった。
相変わらずのモレーン上をひたすら登る。ABC(6300m)には約4時間で到着
(遅い人で5時間)。雲がかかり寒い。
先着のシェルパにより、モレーン上の安全な所に幕が張られていた。
夜の無線によると、北澤隊員はBC着後、すぐラッセルプライス隊の医師に見てもらい、
左脳内出血の疑いありとして、すぐ車で高畠マネージャーと一緒にザンムーに下ったそうだ。
明日カトマンズの病院に入る予定とか。
(小原記)
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昨夜はヤクのカウベルを子守唄に眠った。
9時頃より今日の行進が地獄のそれとも知らず各自出発する。東ロンブク氷河上の
ガラガラ道をダラダラ登る。今後固定テントを置く予定のC1.5(5700m)で大休止。
約3時間掛かった。ここから先が地獄の道となる。
急降下して左隣のモレーンに移る。所々氷が露出した急坂をヤクは滑りながら下り、
あえぎながら登る。見ていて可愛そうになる。モレーン上に出ると後はガレキの道を
ダラダラと歩くのみ。
左右の氷柱と頭上のエベレスト北壁が壮観。この道は通称「ミラクル・ハイウェイ」というそうだ。
しかし、”順化していない体では6000m前後の登りが一番つらい”という経験則を
地で行く様にこれからのダラダラ登りがつらかった。
あの丘を越えるとC2か、あの先か、を10数回も数えると、精神的に参ってしまい、
疲れが増す。C2(6000m)には夕暮れ時になってしまった。最後尾の北澤隊員は
暗くなった7時半に到着した。
(小原記)
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夜10頃ヤクがついたとかで、急遽予定通り上部へ出発となった。
6時30分モーニングティ、8時朝食。ヤクはまだ来ないが、食後各人思い思いに
出て行った。
9時0分頃よりヤクが集まり、荷物の検量が始まった。厳しく1個1個竿秤で計っていた。
ヤクの群にはさまれてゆっくりとガラガラ道を登る。ちょっと急ぐと呼吸と足があわず
息が上がる。やはり、5000mだ。
道は東ロンブク氷河に向かって急登となる。40kgを背負ったヤクも苦しそうだ。
これを登り、左壁にそってゆるいトラバースを終えるとそこがC1(5500m)であった。約3時間。
石コロをどけた所に新品のテントを張り、ヤクと共に寝る。
(小原記)
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風もなく快晴の朝。絶好の撮影日より。朝食の前後にスポンサー向けの写真を、
エベレストをバックに撮り終える。
朝食後、サーダーの強い要望で、全隊員にて下のロンブテ寺院に安全祈願に行く。
1時間ほどで到着したこの寺は古い寺だった。文化大革命で破壊され、ご本尊は
地下に隠されたようで、我々は真っ暗な地下に降りて拝ませてもらった。
その後、裏の岩山に案内され、大岩の下の狭い洞窟に導かれた。坊さんとシェルパの
ライトを頼りに迷路の登り降りを繰り返すこと約30分。やっと外に出られた。日本の
胎内巡りとまったく同じである。
違うところはここが標高5000mであること。ハーハーゼーゼー、本当に苦行であった。
この穴はカイラス山の高僧が見つけたとかでカイラス巡りと同じご利益があるそうだ。
遅い昼食となった。
明日に上げに使うヤクが夜になっても到着せず、C1への出発は1日延期とのこと。
(小原記)
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昨日に比べるとだいぶ暖かく感じた。−5℃位か。快晴でエベレストが素晴らしい。
昨日雪が降ったようで北壁もだいぶ白い。
朝、チベット側からの全登山隊の責任者、サーダーの打ち合わせがあり、当隊からは
雨宮、高畑、フィリップ、サーダーが出席した。22隊集まった。
要旨は次のとおり
@レスキューの件
各国お互いに助け合う。
中国隊が大型医療用酸素をBCにおいている。
Aフィックスロープの件
ラッセルプライス隊と中国隊が頂上直下までの新規フィックスをする。
イエティ同人隊としてはロープ600m、スノーバー15本提供する。
何も提供できない隊は一人US$20支払う。
B環境の件
残置ボンベ撤収等で一隊US$500徴収し、汚していなければ後日返金する。(返金可能性低)
ABCのトイレはなるべく汚さないように考えてやってほしい。
Cその他
ノースコルのテント場はせまいのでできるだけくっつけて張るように。
以上
午後、大河内隊員の指導により酸素器具使用訓練を受けた。
昼からエベレストに雲が掛かり、寒風強まった。
(小原記)
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とても寒い朝、−10℃位か。今朝はエベレスト上空に薄雲が出て、パッとしない天気。
6時20分ころ明るくなり、7時10分ころ陽が差してくる。
7時モーニングティ、8時朝食。5200mの第一夜に高度障害に悩まされたものもいた
ようだが概ね元気。
今日の仕事は荷物の整理。「装備」「食料」「通信」に分かれ
担当以外は忙しい部署を手伝い大変な物量をハーハーフーフーと息を切らしながら、
みな良く働いた。
たくさんのメールも見ることができ、皆さんの支援に改めてためて感謝、感謝。
今日は一日中氷点下と思われた。エベレストも雲から出たり入ったり。
(小原記)
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真夜中、我々の荷物をBCに運ぶトラックの騒音に安眠を妨げられたが、
心配した車の手配も順調で快晴のもと、エベレストのBCに向け、8時30分
6台のランクルはティンリーを出発した。
中尼公路を快調に走り、9時20分ニューティンリーの手前を指導表に従って
右折する。ここからBCまでは約90kmほどの山道である。くねくね道を高度を
上げると9時55分、いきなり8000m峰が目に飛び込んできた。5150mの
パン峠である。
右からチョーオユー、ギャチュンカン、エベレスト、ローツェ、マカルーが並び、
まさに圧感。時を忘れる。10時10分出発。峠から下ると4000m台となり、
山に囲まれた平坦地が広がり、集落や畑が次々と現れる。道は再び登りとなり、
山々の間を抜けると突然エベレストが大きくなった。
先頭を走る我々の車は速くもBCを見たくロンブク寺を通過し安全祈願は本隊に
任せた。12時ちょうど、待望のエベレストBC(5100m)に到着した。
エベレストBCはロンブク氷河末端の広大な荒涼とした所で3段に分かれている。
我々のキャンプ地は2段目で真正面にエベレスト北面が見上げられる。素晴らしいところ。
今年は雪が少ないのか北壁は黒々とし、頂上から北稜にかけて雲が真横に流れ、
ジェットストリームの強さがよくわかる。しばし茫然
。
日本かエアのにもほとんど届いており、(隊荷が雪のために空路に変更になったとき、
ガスボンベのカートンが抜かれたが、カトマンズで購入済みで登山に影響なし、しかし
一部隊員の個人装備が届かなかった。)
シェルパ達も到着すると4時頃には立派なキャンプ村ができあがった。エベレストから
吹き下ろす南風が強い。今年はエベレスト発登頂から50周年。世界中から登山隊が
押し寄せ、ここチベット側からは28隊300人くらいが登るとか(ネパール側からは350人
位とか)テレビ局同行隊が多いそうだ。
夕食後、リエゾンオフィーサーとの打ち合わせ内容が隊長、マネージーより発表された。
「ABC間での運搬用ヤクは70頭、12日に出発する。今年より清掃代として1隊US$500
を徴収、BCの看視人(チベットの物売りをBCにあげない)の手当てとして200元徴収。」
夕方、不合理な中国時間をネパール時間に戻す。2時間15分戻し。以後はネパール時間使用。
エベレストBCの最初の夜はとても寒かった。
(小原)
↑topへ 4月7日(月) 晴れ (ニェラム〜ティンリー) 車
9時の朝食後、皆で日向ぼっこしながら昨日のランクルを待つが、待てど
暮らせどこない。連絡もままならないようでただただブラブラしながら待つのみ。
昼になってもこないので、ここの業者と直取引し、ミニバス1台、ランクル2台
をチャーターし、やっと車に乗れた。
町はずれの橋で運転手が検問を受けた後、2時55分、本格的に出発した。
車は赤茶けた木一本無い山間の土埃の道を川に沿って緩やかに登っていく。
この道は中尼公路(国道)で道は堅く締まりデコボコも少なく、車は50〜60km
のスピードで砂塵を巻き上げて走る。
所々に石を積み土で固めた長方形の家の集落があり、その近くには必ず、丁寧に
石ころをどけて耕した畑が広がっている。全く雨が降りそうもないのに、どうやって
灌漑するのだろう。
徐々に高度を上げてヒマラヤの山々も見得出すと、4時10分標高5050mの
ラルング峠に到着。少し雲がかかっているが素晴らしい山並み。シシャパンマから
シュガール山群の峰々が一望であった。風が強く、冷たく、10分の撮影タイムの後、
ティンリーに向け下る。もう一つの峠を越える後は下るのみ。
途中、エベレストが初めて見え、チョーオユーも大きく立派だ。どんどん高度を下げ、
5時10分、ティンリー(4400m)に入った。ここはオールドティンリーと呼ばれるところ。
宿である老ティンリー旅館はエベレストビューホテルと呼ばれているところ。
(エベレストは街外れまで歩いていかないと見えない。)
コの字形の客室に囲まれたあまり広くない中庭はエベレストやチョーオユーの遠征隊の
ランクルやトラックでびっしり。いろいろな国の登山家で満員であった。オンボロバスに
乗せられた我が隊員、シェルパは山の景色どころではなく、2時間20分遅れでようやく
ホテルに到着した。途中エンジントラブルで坂道を上れなくなったり大変だったようだ。
ここまで来るとチベット色濃く、料理も大分脂っこくなってきた。
(小原記)
↑topへ 4月6日(日) 晴れ (ザンムー〜ニェラム)車
中国時間の7時起床、外は真っ暗。7時半、前のレストランで朝食。まだ真っ暗。
ようやく明るくなった8時20分に出発する。ここからBCまではランドクルーザーである。
隊員14名。BCまでのトレッキング隊員2名、ガイドシェルパ10名コック等4名の
総勢30名は7台の車に分乗してキャラバンに出発した。
今日はニェラムまでの30kmしか進まない。その先のティンリーが4400mの高所
なので無理できないのだ。
断崖の中腹のデコボコ道をランクルはかなりのスピードで高度を上げていく。
崖にさくラリグラスやスミレと思われる紫の花の群落を愛でる暇もない。
3000mを越えると道脇に残雪が現れ、沢には雪渓が残る。周りの6〜7000m級
の山々が朝日に輝いてまぶしい。
9時40分、大きな街に入る。ここがニェラム(3750m)であった。富士山の高さとあって、
さすがに寒い。
街の真ん中にあるスノーランドホテルにはいる。トイレ共用シャワー無し。チベットでは
一般的なホテルのようだ。
13時、向かいのレストランで昼食。大分、環境、高度にも慣れ、皆食欲旺盛。テーブルの
料理はきれいになくなった。夕食までの間。夕食は20時。皆体調はよいようである。
(小原記)
↑topへ 2003年4月5日(土) 曇りのち晴れ (カトマンズ〜ザンムー) 車
ランタン谷トレッキングから戻り、4月2日〜4日の間カトマンズで充分休養をとり、
いよいよエベレストに向け出発である。
トレッキングだけで今日日本に戻る河野、森崎、藤野の見送りを受けて6時55分、
バスは朝靄の中、カトマンズを出発した。2時間半ほど走ったカディチャウルと言う
大きな街で30分間のティータイム。バスは北へ北へのひた走る。
徐々に道も悪くなり、ホコリっぽくなるとまもなく国境の町コダリ(1750m)に到着だ。
11時30分着。ネパール人、外国人観光客、中国人とバス、トラックでごった返している。
バスを降り、ザックを担いで食堂に入り持参のおにぎり弁当で昼食。
食後、国境に架かる友誼橋を渡って、ここで仮の入国手続きをし、いよいよ
中国チベットに入った。中国側はネパール側よりも汚い。道はグチャグチャで
ゴミが散らばっている。坂道を少し登るとエージェントがバスで待っていた。
これに乗って1時間45分出発急な悪路を走ること30分。2350mのザンムー
に到着し、ここのイミグレーションで正式の入国許可を得た。
すぐ、高級ホテルザンムーホテルに入る。シャワーはあるがお湯は出ない。
ネパール時間の14時45分、中国時間の17時であった。
ザンムーは急斜面に開拓された街。我々のホテルの入り口は4階で部屋には
階段を下りて行かなければならない。買い物は坂道を登らなければならない。
疲れるけどこぎれいな街だ。
夕方近くのレストランでシェルパ達と会食する。中国料理がおいしかった。
なお、為替レートは1元≒15円
(小原記)