ボリビア・アンデスの山旅
その1

(2005.6.10〜7.6)

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コカの産地ボリビア。チエ・ゲバラが、革命を起こそうとして失敗して殺された国ボリビア。ラパス空港が富士山より高い4,080mの高地にあって、空港を降りて急いで歩いたら息の切れる国。日本では、ペルー・アンデス程には知られていないボリビア・アンデス。そんな漠然とした知識で、ボリビアへ山登りに行ってみたいと思いだしたのが、3年前。
 「南米の山は、明るくて、ネパールとは違う楽しさがありますよ。」と宮川清明さんを勧誘し、ボリビア・アンデスの山旅を計画し始めた。昨年夏から、スペイン語の勉強をはじめたが、今日覚えた10の単語も、翌日になると8つは忘れてしまう始末。私のスペイン語は遅々として進歩せず。「お父さんのスペイン語は、何時までたっても、コモ・エスタ・ウステ、セニョリータ・エルモーサばかりね」と家内からからかわれる始末。
 昨年秋になって、登る山を、ボリビア山岳会が頂上でサッカー大会を催したといわれるボリビア・アンデスの最高峰サハマ6,542mに絞って、具体的に計画を立て始めた。この山なら、私たち熟年登山者にも、割と簡単に登れるのではないかとのいささか甘い考えで、登山と観光、ハイキングと盛りだくさんのプログラムを組んで具体的な計画に仕上げた。
日程は,2005年6月10日から7月6日の27日間の旅とした。
 今回のメンバーは、登山組は、宮川清明さん、朝倉英子さんと私の3人。そしてハイキングと観光が主体の高野昭吾さんと、宮川ふみ江さん。2003年秋に、ネパールのアンナプルナ一周トレッキングを一緒に楽しんだ同じ5人の仲間。全員5,500mの高度までは充分経験しており、このメンバーなら深刻な高山病の心配もないだろう。5人とも、日本山岳会京都支部所属の、最高齢71歳、最少年齢64歳のまさしく熟年登山隊が出来上がった。
 ボリビアについてもっと知識を得て、ボリビア・アンデスの山旅にいきたいと、図書館やあちこちから資料を集めて、昨秋から真剣にボリビアについての知識を吸収し、具体的な準備を重ねた。
 お金さえ出したら連れていってくれる山岳旅行代理店の公募登山には、全く興味がない。「面白いから登る、自分本位の山登り」を追求する自主・独立の全て手作りの海外登山が、我々の山旅の基本姿勢である。

1.ボリビアという国:

コロイコのコカ畑(コカの葉を摘む農民)
油を流したような静かなチチカカ湖
チチカカ湖に浮かぶ
太陽の島の農民たち

 ボリビアは、南米大陸のほぼ中央部にある南緯12.22度にある海のない国(エクア  ドルの首都キトが、赤道直下)。面積は約110万平方キロメートルで日本の約3倍。
 人口は約830万人。ボリビアの国土の約3分の1はアンデス山脈が占めており、
6,000m級の高峰が14座もある高原の国である。ボリビアの主要都市の半分近くが標高2,000-4,000mに位置している。
 南米の中で最も先住民の人口が多い国と言われており、人口比率は純粋なインデイ  ヘナ55%, インデイヘナと白人の混血メステイソが32%, ヨーロッパ系12% 、そのほ  か1%となっている。
 政治体制は、1982年より民政がつづいており、直接選挙による立憲共和制。大統   領の任期は5年で、行政権は大統領にあり、12閣僚が大統領を補佐する。
 ブラジル、パラグアイ、アルゼンチン、チリー、ペルーとの国境を接するが海に出口  を持たない。国土の大部分を、アンデス山脈とアマゾン熱帯地域が占めている。
高原地帯、アマゾンとも11月-3月が雨季となり、乾季は6月-8月。ラパスの平均気  温は、年間を通じて摂氏7-10度くらい。

2.ボリビアの歴史と文化:

 スペイン人に征服される以前のはるか昔の、紀元前後に、チチカカ湖の近くにテイワナク文化があったと言われており、9世紀から11世紀にかけてアイマラ系の人々によって大神殿などが建設され、テイワナク文化の最盛期を迎えた。現在も、「太陽の門」  「半地下神殿」等で有名なテイワナク遺跡が保存されている。
13世紀の初めにペルーのクスコ周辺から発生したケチュア系の人々による「インカ帝国」が急速にその勢力を拡大し、チチカカ湖周辺にもおよび、15世紀になるとテイワナクを中心としたアイマラ系の人々の地は、インカ帝国の勢力圏に組み入れられてしまった。
 1533年にインカ帝国を征服したフランシスコ・ピサロに率いられるスペイン人は、豊かな銀鉱山を持つボリビアにも侵略し、ペルー副王領の中に組み入れられた。高品質のボリビア・ポトシから産出される銀は、スペイン本国にまで運ばれ、スペイン国王の植民地戦争に必要な大きな財源となった。
 ボリビアの独立は、ベネズエラ、コロンビア、ペルー等を独立させたシモン・ボリバル傘下のスクラ将軍により、1825年に達成された。ボリバルの名前にちなんで、国名がボリビアと名付けられた。
 19世紀のボリビアは、政情不安な時代であった。近隣諸国との争いで、ボリビアは広大な領土を失い、海への出口を持たない内陸国になってしまった。
 1941年、チャコ戦争に参加した青年将校や都市部の中間層を中心として、政治の改革を目指した「民族主義的革命労働党(MNR)」が結成され、1951年の大統領選挙で
党首のビクトル・パス・エンテンソロが当選するまでになった。しかし、選挙結果に
反対する軍部がクーデターを起こして政権を掌握した。これに対し、MNRに率いられる鉱山労働者や市民達が武装蜂起し、1952年9月に「ボリビア改革」をおこし、社会主義路線のMNR政権が発足した。
 しかし、経済面で停滞したボリビアをこれ以上社会主義路線で進めて行くだけの力がなくなり、1964年-1982年までクーデターが頻発した。
 1982年にようやく軍政権が退陣し、民政への移管が実施されて、民主的な政権交代が行われた。
 今年2005年になって、現政権の行政に不満を抱く人々が、地方分権についての国民投票実施、憲法改正議会招集法の促進等を巡り、活発な運動を展開し始め、5月になると、いろいろな社会団体がデモ、道路封鎖といった抗議活動を活発に行った。このため、主な都市間の道路が封鎖されて通行出来なくなり、6月初めにはAA(アメリカン・エアライン)等の海外の航空会社が不安を抱き、ラパス空港に入らなくなった。
我々がマイアミを出発する6月11日からは、何とかAAもラパスに飛ぶ予定との情報のもとに、とりあえずマイアミまでいこうと日本を出発した。結果としては、その日はラパスには着陸せず、サンタクルスに降ろされて、約1時間の国内便でラパスへ移動した。私たちがラパスに到着して数日後に、現大統領が辞任し、市民側が要求していた最高裁の判事のエドナルド・ロドリゲスが臨時代理大統領になり、その翌週に臨時閣僚が選出された。ボリビア政情の一時的な混乱は避けられ、とりあえずラパス市内も平穏な状態に戻ったが、今後ボリビアが政治的にどのような方向に進み、どのような経済的な施策がとられるのか、注目されるところである。
 ボリビアには、戦前から日本人移民の歴史がある。1899年に第一回ペルー移民の中から93人がボリビアのゴム農園就労に入ったのが始まりと言われており、その後は、鉱産物の積み出しの鉄道工事関係に従事する為の移民、そして1954-1992年の九州の炭坑失業者救済措置、及び農民移民として沖縄からの移住者があったが、日本の高度成長とともにボリビアへの日本人の移民者が激減し、現在のボリビア在住日系人は約
14,000人と言われている。
* 以上、「地球の歩き方」、及び「ボリビア日系協会連合会」発行の資料を参考にさせていただいた。

3.ボリビア・アンデスについて:

 今回私たちが登りに出かけたのは、ボリビア・アンデスの最高峰サハマ6,542mだが、この山はボリビア・アンデスにある5つの山脈の中の西の方にあるオクシデンタル山  脈に属している。
大きくわけるとボリビア・アンデスは「東の山脈」と「西の山脈」の二つに大別される。
 アルテイプラーノ(高原地帯)の東縁となるボリビア・アンデスの「東の山脈」は湿潤なアマゾンからの風を貰って豊かな降雪に恵まれ、標高5,500mでも氷河が見られる山塊で、北からアポロバンバ山脈、レアル山脈、そしてキムサルク山脈の3つがある。
アルテイプラーノの西の縁となるボリビアの「西の山脈」は、南米中央部砂漠地帯に浮かぶオアシスのような独立峰からなり、オクシデンタル山脈とリペス山脈の二つがある。
ボリビア・アンデスは未だに未開拓な手つかずの山々が数多く残っており、アメリカン・アルパイン・ジャーナルの元編集長であるクリスチャン・ベックウイッズ氏も
「ボリビア・アンデスは、今行ってみたい世界で3つの山域の一つである。」言う。

1)アポロバンバ山脈:

 ラパスから遠いので、今でも手つかずに残っている山々が多い山域。1957年にドイツ隊がこの山域に入り、Orco(6,044m)等数多くの初登頂の記録を残した。1958年にイタリア隊がChampu Orco Norte (6,000m)他を数多く初登頂した 。その後、 1962年に一橋隊の倉知、中島、中村氏がAcamani(5,666m)に初登頂している。

2)レアル山脈:

 ラパスの北にある山脈で、ボリビア・アンデスで一番入りやすい山域である。
主な山としては、イリマニ(6,462m), ワイナポトシ(6,087m), イリアンプ(6,368m)、コンドリリ(5,848m), チャチャコマニ(6,042m), アンコウーマ(6,247m)がある。
 日本人の初登頂した山としては、1964年に東京外大隊が登ったワイナリアンプ(5,950m)とハンコラヤ(5,545m)がある。

3)キムサルク山脈:

 過去においてはボタ山ばかりと言われてきたが、1987年にドイツ隊の報告書でキムサルク北部の岩と氷の山々の美しさが世に紹介されて以来、世界の登山家の注目を浴びるようになった。
 1990年代に入り、「南米のカラコルム」との異名が冠されるようになった。キムサルク北部は尖塔の岩登り、南部は雪と氷のピークへのクライミングに魅力がある山塊と言われている。
 Korichuma(5,500m), Atosama(5,565m)他5,000m代の山が70程あるが、未だ名前も定かでない未開拓の手つかずの山々が残っている地域。日本人では、1968年に栃木県山岳協会がこの山域に入り、幾つかの初登頂をしている。

4)オクシデンタル山脈:

チリとの国境近くにある砂漠の中にあるオアシスと言うべき3つの独立峰がある。
サハマ(6,542m) は、ボリビアの最高峰。1939年にドイツ隊のヨセフ・プレムにより、初登頂された。日本人では1964年の東京外大隊が西面から登頂。
 サハマと相対するように並ぶ2峰は、富士山にそっくりなパリナコタ(6,330m)とその右となりのポメラタ(6,222m)。

5)リペス山脈:

ボリビアの西にある最南端の山脈。「アンデスの聖なる山」と呼ばれているリカンブール(5,969m)がある。

* 以上、増山茂著「ボリビア通信。ボリビア・アンデス」を参照させていただいた。

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