「1」 ロールワリンについて … 遠征準備
「2」 ロールワリンへ出発
「3」 ラムドン・ピーク偵察そして登頂
「4」 遠征記録
「5」 ロールワリンの山々
5.カトマンズからロールワリンヘ:
ガウリサンカル遠望 |
シミガオンから眺める早朝のガウリサンカル |
チョゴギゴ(6259m)とメルルンラ |
チョゴギゴ(6259m)とバモンゴ |
未踏峰のバモンゴ |
チョブジェ(6685m) |
10月10日の真夜中の1時25分、関空発のタイ航空にてカトマンズへ出発。バンコクで乗り換えて、カトマンズにはその日の12時45分に到着。ネパールのビザはカトマンズ空港で取得する積もりでビザ代US$30.-を用意していたが、今年の6月から90日までのビザはUS$100.-に値上がりしたと言われビックリ。30日までのビザはUS$40・−で
40日間のビザはないとの事。
私の定宿のタメルのインターナショナル・ゲストハウスにチェックインした後、午後Seagull Travelのオフィスに訪問し打合せした。同社は近々新事務所を王宮の東の方のNaxtal地域に引っ越すとの事。サーダーのナワン・ヨンデン・シエルパもやってきて挨拶を交わす。背の低いズングリ・ムックリの田舎のおじさんみたいな気さくな人だった。
10月11日、晴れ。
のんびりとタメルからダルバール広場の方へ市内観光。
10月12日、晴れ。
早朝にシェルパやキッチン・スタッフが20人乗りのチャーター・バスで迎えにきてくれ、6時前にカトマンズを出発。途中、チャリコットの1時間ほど手前の尾根道から、シシャパンマやランタン・リルンを望む事が出来た。昔はチャリコットまでしか車道はついていなかったらしいが、タマコシ河発電所計画が持ち上がってから、現在はシガテイまで車が入れる。チャリコットからタマコシ河へ下り始めると、道は未舗装の穴ぼこだらけのガタガタ道。バスかトラックしか走れない道だ。下り道の途中で、木の間越しにガウリサンカル(7135m)の勇姿が見えて、胸をとどろかせる。シガテイの手前で、村人がバスの通行を阻止してそれ以上行けなくなった。シガテイへの公共バスの乗り入れ回数が少ないので、バス会社に抗議するために我々のチャーター・バスの通行を阻止するとの事。運転手が村人の代表と話し合うもらちがあかず。30分ほどたって、サーダーのナワン・ヨンデンさんが村の代表と交渉。「日本人の遠征隊を載せたバスをこのように阻止して外人に迷惑をかけるのはもってのほかだ 。遠征隊の荷物をシガテイのテント場に運んだ後、バスをこの場所に必ず送り返すから、あとは運転手とバスを人質にとってバス会社と交渉したらよいではないか。」とのサーダーの主張が通り、我々を乗せたバスは、その晩の泊まり場のロッジ前のキャンプ場へ。我々と荷物をおろしてバスは又村へ引き返したが、恐らくその晩はバスごと村に留め置かれた事であろう。
10月13日、晴れ後午後4時頃から雨。
この日は、シガテイからジャガットまでの行程。2時間ほどでスリドバンの村。スリドバンから1時間ほど足らずで、茶店のある畑地がでてくる。そこから2時間ほどでマンターレの村だが、マンターレ村の左岸の巻道が崖崩れになっており、滑り落ちればタマコシ河へ転落しそうな厭な急傾斜の道を下る。マンターレの村を過ぎてすぐあとの吊り橋を渡ると、ジャガットの下村。橋の近くにある私立学校の校庭にテントを張った。その横に校長が経営しているロッジがある。
10月14日、晴れ後午後4時半頃より小雨。
ジャガットを出ると道はややこしくなり地形も厳しくなってくる。今日の泊まり場は、シミガオンだがジャガットの上のタシナム村出身のポーターが多いので、ポーターの大半はタシナムの自宅に顔を出した後、遠廻りしてシミガオンにやって来るという。トレイルは多くの支流の滝をかかえる厳しいゴルジュ帯に入り、角を曲がるたびに息をのむ光景がつづく。穏やかなタマコシ河が白く泡立つ激流となった。ジャガットを出てから2時間強で茶店と学校のある場所に着く。そこから吊り橋で支流を渡るとコンガル村。パルチャモにお客さんを連れて登って来られたウエック・トレックの貫田社長に出会う。サーダーのナワン・ヨンデンさんとも顔なじみで、懐かしそうに話をされていた。モンスーンあけのすぐ後だったので、腰までの雪があり、シェルパにスコップでラッセルさせて登ってきた由。チェチェットの村を過ぎて、吊り橋で左岸に渡る。天国へ通じるかと思われるような急な尾根につけられた階段の登り道を、あえぎあえぎ登る。
畑地が現れ台地状のシミガオン村にでたが、シミガオン・ゴンパのある稜線の泊まり場までそれから1時間以上もかかった(15:20着)。家族に会いにタシナム経由やって来るポーター達が到着したのは、それから2時間以上たってからだった。
10月15日、シミガオンからロールワリン河沿いにトラバースするように、石楠花の木が多い湿気のある森の中のトレイルを歩く。ロールワリン河の景観を下に見ながら、登ったりトラバースしたりして小さな集落のキャルチェ村についた。先着のイギリス人がテントを張っており、フランス人のトレッカーもキャルチャに泊まるらしいので、更に先のより快適なドクナンで幕営しようとサーダーが決定。ドグナンはロールワリン河がすぐ横に流れる明るく開けた草地で、2軒の民家あり。明日からは禁酒にしようと、民家からロキシーを購入し最後のアルコールを楽しんだ。いろりのある小屋の中で食事をとらして貰った。ベデインの電気工事にきていると言う政府の役人にであった。
10月16日、晴れ。
ドグナンから一段登ると、遙か遠くに白い秀峰チョキゴが顔を出した。石楠花の森、幾つかの支沢を越える。ロールワリン河の激流の音を聞きながら、気持ちの良いトラバース道を歩く。支沢の橋が流されて飛び石つたいに対岸に行かねばならない所もあった。ドグナンを出てから約2時間でロールワリン河にかかった吊り橋を右岸に渡る。吊り橋から、滝となって流れ落ちる激流のロールワリン河を眺める。崖崩れで厭な下りのトラバースの箇所あり。チョキゴが正面に見えた。実に秀麗な山だ。ラムデン、チャムカ等の小さな村を過ぎ、3時過ぎにベデインに到着。ベデインはロールワリン河の開けた所にある風の強い寒い村だ。右岸の村の後ろにガウリサンカルの前衛峰がそびえる。ベデイン・ゴンパの近くのロッジ前にある民家を宿泊地とした。いよいよロールワリンの中心部にきたと感慨深い。
10月17日、快晴。
休養日。ベデインの裏山の瞑想所へハイキングに行った。崖の絶壁のテラスにへばりついたような小さな瞑想所だ。ベデインの学校の子供達にと、日本から持参した画用紙帖と10色入り色鉛筆セット10人分をベデインの子供達にお土産として渡すことにした。残念な事に、ちょうどダサインで学校が休みとの事で、先生達には会えなかったので、サーダーを通じて子供達のいる家族に手渡して貰った。キラキラ光る目で、にっこり笑って「ダンニャバード(ありがとう)」と礼儀正しくお礼を言う子供達にこちらも自然と笑顔がこぼれる。母親やお婆ちゃんも、嬉しそうに喜んでくれた。たいした事ではないが、地元の人達とのささやかな交流が出来たような気がした。
10月18日、晴れ。
ベデインからのんびり歩いて約4時間でロールワリン最奥の村ナ。ナ村では、サーダーのナワン・ヨンデンさんの経営するロッジ「Rolwaling Mountain Resort - Na」に宿泊する。このロッジをベース・ハウスにして、ツオー・ロルパ及びリピモシャール氷河への高所順応ハイキング、及びラムドン・ピークのアタック・キャンプへの偵察も行う予定だ。休養日も入れて10日間宿泊の予定。風呂はないが、新しい建物で、部屋もトイレも小ぎれいで、気持ちの良いダイニング・ルームも快適だ。ロッジの前が草の広場になっており、テントや寝袋を乾かしたりしていると、ときどきヤクが遊びにやって来るというのどかな風景。ナワン・ヨンデンさんは、シェルパとして稼いだお金でカトマンズの郊外に一軒家を持っており、又ルクラでも16室のロッジを経営しているというロールワリンでも有数の富豪。ベデインやナのゴンパの修復にも随分高額の寄付をしたらしい。彼は6歳頃から5〜6年ゴンパで修行していたらしく、実に敬虔な仏教徒である。実兄のナワン・サキャさんは、シェルパとしての仕事をしながら、ベデインとナのラマとしてゴンパの仕事もしている由。サーダーは、早速近くの民家にテントを張っているトレッキング・パーテイを訪れ情報収集。数日前に、ドイツ隊がラムドン・ピークに挑戦したが、雪が深くて頂上には登れずに撤退してきたとの事。ロールワリン河の右岸のナ村の裏には、左側にチョキゴ(6259m), その右には未踏峰のバマンゴ(6400m)が聳える。バマンゴは、ネパール側のナ村からはどこからもとりつけそうにない急峻な岩と氷の山だ。ロールワリン河の奥には、名峰チョブチェ(6685m)が聳える。
6.高所順応(10月19日〜26日):「ツオー・ロルパ、リピモ氷河探索」
ツオー・ロルバ |
ツオー・オルバの東のテンカンポチェ |
上記3枚ともリピモ氷河 |
リピモシャール氷河右股のタンナクリ (6489m)=左とパパ(6533m) |
リピモシャール氷河右股のマイオツオー、 タンナクリ=左とパパ=右 |
パパ(6533m)=左とタンナクゴ(6662m)=右 |
リピモ氷河左股 |
リピモ氷河全貌 |
リピモ氷河右股。最奥の高い山は 未踏のリピンツエ(6357m) |
左から、カンナチュゴ(6735m)と ツオナビク(6381m)いずれも未踏峰 |
私たちの隊は、毎日が日曜日の年金生活の熟年登山隊なので、急ぐ旅ではないから、出来るだけ余裕を持った高所順応期間をとろうと慎重に計画した。大阪山の会の大西保会長や京都クライマーズ・クラブの林雅樹さんからも貴重なアドバイスをいただき、ナ村に8日滞在して高所順応を行う計画だ。
10月19日、晴れ。
今日はツオー・ロルパの4700~4800mあたりまでのハイキング。ツオー・ロルパはネパール最大の氷河湖と言われている。氷河の決壊による被害を防ぐために、世界各国からの調査と支援が行われている。日本からも、名古屋大学の大気水圏研を中心とする氷河学者が何度か調査にきている氷河湖だ。京大山岳部OBの門田勤さんや藤田耕史さんも観測にきたとの記録がインターネットにでていた。
6時50分にロッジを出発。ナ村のある右岸から吊り橋を渡って左岸の台地へ。なだらかなロールワリン河沿いの道を2時間ほど歩いて、ツオー・ロルパの大きなモレーンの下にかかる橋を右岸に渡る。モレーンの急坂を登ると観測所があるツオー・ロルパに9時35分に到着した。
突然、観測所の方から、ネパール人のガイドが飛び出してきた。「日本人のトレッカーが高山病になって困っている。観測所の無線が使えないので、衛星電話を持っていたらヘリコプターでの救助を要請するのに使わして欲しい。」との依頼。
私達がウエック・トレックからレンタルしたスラーヤ衛星携帯電話を今日はナ村のロッジに置いてきた。今日は高所順応活動の第1日目で大事な日だが、人命にはかえられない。衛星携帯電話の使い方になれている福本さんと隊長の私が、ガイドと一緒にナ村まで急遽下山し、他のメンバーはサーダーとシェルパと共に予定通りツオー・ロルパの最奥まで登って貰うことにした。
歩けなくなった単独の日本人は、この観測所のすぐ上のロッジまでなんとか担いでおろしたが、これ以上もう一歩も歩けない状態という。急遽ヘリコプターでの救助を要請したいと、ガイドは必死。
私も、以前御一緒した方が高所肺水腫になりかけて、エベレスト街道のペリチェからヘリコプターでの搬出を要請したことがあるので、如何に迅速な行動が必要かはヒシヒシとわかる。
福本さんと私は、ガイドと一緒に急ぎ足でナ村のロッジヘ走るように下山した(11時40分着)。スラーヤ衛星携帯電話もなかなかガイドの事務所につながらず、いらいらする。20分ほどトライしてようやく連絡がとれて、ガイドはカトマンズからのヘリコプターをアレンジすることが出来た。ガイドは、お客の日本人トレッカーの東京留守宅にも連絡しておきたいと奥さんに電話した。ガイドによると、そのお客はラムドン・ピークに登った後、テシラプチャを越えてナムチェバザールへ行く途中だったとの由。しかし、その日の午後、ツオー・ロルパ上のロッジでガイドと話をした我々のサーダーは、実はあの日本人の客はラムドンには登っていないのだと聞かされたという。不可解な話だ。その日の午後は、福本さんと私は休養日のようなのんびりした日だったが、他のメンバーは16時過ぎにかなり疲れて戻ってきた。4700mまで登ってきたらしい。高所順応初日としては、十分な成果だ。
10月20日、晴れ。
今日は、休養日。ロッジ前の庭の草は夜露が凍っていた。今日も快晴。のんびりと洗濯したり、寝袋をほしたり。ツオー・ロルパの方へ救援のヘリコプターが跳んでいき、すぐに折り返してカトマンズの方へ帰っていった。あの日本人は、うまく救助されたらしい。よかったとほっとする。暇な時間をみて、ロッジの裏の滝を見に行く。ロールワリン河沿いに広く開けたナ村全体が見下ろせる。
10月21日、晴れ。
今日は待望のリピモ氷河へ入る日。随分大きな氷河なのにこれまでのリピモ氷河に入った記録は殆どなく、北大のタンナク・リ(6801m)遠征隊の報告書で知るだけであった。
未知の部分が多く、非常に興味のある氷河だ。
今日は出来たら5000m近辺まで登って、リピモ氷河全体の把握をしながら、対岸のラムドン・ピークの状態も偵察したいという欲張った高度順応行動の計画だ。
ビスケットと紅茶だけの朝食をすませ、4時40分にロッジを出発。
ツオー・ロルパへ登る道を途中から外れ、北方の丘を目指して登るとリピモ氷河のモレーンに出た。リピモ氷河は左俣と右俣にわかれている大きな氷河だ。アンナプルナ内院と同じような馬蹄形の広大な氷河。左俣の入り口に、未踏峰のカン・ナチュゴ(6735m), その北隣の6381m峰は1/50000の地図では「Thama
Bhanjyan」となっているが、サーダーのナワン・ヨンデンさんは彼等地元の人間は「ツオナビク」(Tsonakpuigo = 湖の豆)と呼んでおり、この山も未踏峰の筈だと。
左俣の一番奥のリピンツエ(6357m)もカトマンズ在住のネパール・ヒマラヤ研究家のエリザベス・ホーレさんによると未踏の山とのとこと。その隣のリピムツエ西峰(6301m)は中国側から1992年にスロバニア隊が初登頂したが、主峰には登れなかったらしい。
我々はリピモ氷河右俣と左俣の真ん中にある尾根を登った。
この中尾根の後にパンプク(6705m)があるので、パンプクの尾根かと思っていたが、そうではなく、左俣最奥の山リピンツエ(6357m)から大きく曲がって降りてくる尾根であることが帰国後判明した。この中尾根の末端でリピモ氷河は二つにわかれていて、右俣の入り口にあたる所に紺碧の小さな湖がある。
地図にはオマイツオーと記載されているが、地元の人間は「オミ・ツオ=ミルクの湖」と呼んでいるんだと、サーダーが教えてくれた。右俣の奥には円錐型の堂々としたタンナク・リ(6801m)が聳え、その南に未踏峰のパパ(6553m)がつづく。リピモ氷河右俣からは、全くパパにとりつけそうにもない。右俣の入り口には名峰チョブチェ(6685m)がどっしりと聳えている。チョブチェ南面はもの凄い壁。リピモ氷河右俣に入り、北東壁から初登頂されたらしい。チョブチェ南壁ダイレクト尾根や南西稜は未だ誰にも手をつけられていないのであろうか?
チョブチェとパパの間にタカルゴという6793mの立派な山がある。1977年にイタリア隊によって登頂されたらしい。リピンツエからのこの中尾根は5300m位までは草つきの尾根で、我々は「若草山」と呼んでいたが、リピモ氷河の左俣から右俣を思う存分眺められ、ロールワリン河対岸のチョキマゴ(6259m)やヤルン・リ(5630m)見渡せる晴らしい景観を楽しめる尾根であった。
しかし、風速20m以上の強風が吹き荒れ、油断すると倒されそうになった。中尾根の4980mまで登り、下山した。
この日は気がつかなかったが、帰国後写真を整理してみると、この支尾根から撮った写真のチョキマゴの奥にラムドン・ピーク(5925m)が僅かに頭を覗かせていた。オマイツオーの南端にナ村の住民達が作った祭壇があり、サーダーのナワン・ヨンデンさんは、米をまき、お御酒をささげて、我々のラムドン・ピークの安全登山を祈願してくれた。充実したリピモ氷河の探索と高度順応ハイキングを終えて、16時10分にロッジに帰着した。
10月22日、快晴。
完全休養。シェルパ達はテント、ロープ等の装備を点検。
私たちは、洗濯したり、寝袋をほしたり、アイゼン、ハーネス等の個人装備をチェックした後、ロッジの隣にあるナ村のゴンパへお参りした。ラマのナワン・サキヤ・シェルパが御経をあげ、登山の安全を祈ってくれた。昨晩ロッジに泊まっていたフランス人3名(男2名、女1名)は、今日からチョキゴに登りに行くとのこと。
「1」 ロールワリンについて … 遠征準備
「2」 ロールワリンへ出発
「3」 ラムドン・ピーク偵察そして登頂
「4」 遠征記録
「5」 ロールワリンの山々