ロールワリン・ヒマラヤ(ネパール)
「ラムドン・ピーク(5925m)登山」 その3

平均年齢68.5歳の熟年登山隊6名全員登頂の記録
 (2008年10月10日〜11月18日)

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「1」  ロールワリンについて … 遠征準備
「2」  ロールワリンへ出発
「3」  ラムドン・ピーク偵察そして登頂
「4」  遠征記録
「5」  ロールワリンの山々


7.ラムドン・ピーク偵察:

ヤルンカルカへの登り道
ヤルンカルカBC(4900m)と
ヤルンリ(5630m)=右
ヤルンカルカから眺めるヤルンラ(5310m)
ラムドンACへの途中から眺める
チョキマゴ(6259m)
ピナクルピーク(5766m)
氷河湖からの雪面へのラムドンの登路
氷河湖を下に見て雪面へのトラバース
ガレ場のトラバースから雪面へ
アタック・キャンプへ
アタック・キャンプ(5500m)に到着
ACから眺めるラムドン
ACから眺めるガウリサンカル
ガウリサンカルを背景にACの
ヨンデンさんと田中氏
AC上のフィックスを張った急斜面
ラムドンを背景にナワン・サキヤさん
ラムドン遠望
ラムドン頂上(5325m)は遙かに遠い
朝暘を受けるラムドン
早朝のラムドン・ピーク(5925m)
頂上直下のフィックス・ロープ
ラムドン頂上に到着
ラムドン・ピーク頂上にて記念撮影
ナワン・ヨンデンさんとサキヤさん兄弟
ヌンブール(6957m)
ガウリサンカル(7134m)=左と
メルンツエ(7175m)
シシャパンマとランタンリルン
全員登頂を喜び頂上を振り返る

 第2次高度順応を兼ねて、ヤルンカルカのBC予定地から5500~5600mのアタック・キャンプ予定地へ当初の計画通り偵察に出掛けた。この偵察から、ラムドン・ピークに過去3度登頂しているサーダーの実兄のナワン・サキヤ・シェルパ(63歳)が同行してくれることになっている。一方サーダーのナワン・ヨンデンさんは、一度もラムドン・ピークには登ったことがないという。
彼は、ナ村出身でヤルンカルカまでは何度もヤクの放牧に行ったことがあるが、エべレスト等の8000m峰の大きな遠征隊との契約が切れ目なくあり、未だにラムドン・ピークに登りに行く機会がなかったらしい。
「ナワン・ヨンデンさんみたいなあちこちの遠征隊から引っぱりだこの有名なサーダーが、なぜ今回はスポンサーも全くない私たちのような年寄りの貧乏遠征隊のサーダーになったのですか?」 と質問したら、「実は今回はどこからも声がかからなくてね。サーダーで身体があいているのはナワン・ヨンデンだけだから、貴方達の隊のサーダーになれと事務所から指定されたんですよ。勿論、あなた達がナの私のロッジに泊まってくれると言うこともあってね。裏山なのにこれまで一度も登っていないラムドンに登っておいても、悪くないと思いましたからね。 歳をとったら、ラムドンへお客さんを案内せねばならないかも知れませんから」とカラカラと笑いながらナワン・ヨンデンさんは答えた。

 10月23日、晴れ。

7時にナのロッジを出発。ナガオン手前からヤルンカルカ(4900m)へ登る道はよく踏まれていて歩きやすい。小さな小山を幾つか越えると、広い盆地状のヤルンカルカにでた。
ヤルンカルカの真南は、5310mのヤルン・ラ、そして南西にヤルン・リ(5630m)。ヤルン・リの北側に格好良い岩山が聳える。
クンブーのプモリに似ているので、地元の人はプモリと呼んでいるという。ヤルンカルカはモンスーン・シーズンの6〜7月は無数の花が咲き乱れ、天国みたいな高原になるらしいが、今は草はすべて枯れ、木枯らしも吹き始めてやや寒々としたカルカだ。カルカの東側の丘の下に、清い水の小川が流れており、キャンプ場としては最高。
ナワン・ヨンデンさんは、近い将来にこのヤルンカルカにロッジを建てたいと言う。タマコシ河の発電所が出来たらチェチェットまで車で入れるから、ロールワリンにやって来るトレッカーも急増して、ロッジ商売はきっと繁栄するだろうとの読みのようだ。
その日の午後は、ヤルンカルカBCでゆっくり休養。
先日ヤルンカルカへ上がったイギリス隊は、ドイツ隊の撤退の話を聞いてラムドン・ピークは断念して、昨日ヤルン・リに登って今朝ナ村に下山した。

 10月24日、快晴。

5時40分にBC出発。
ゴロタ石の歩き難い小さな丘を越え、その次の尾根の稜線に上がると、小さな氷河湖が下に見えた。
その尾根の最上部はヤルン・リからくる岩稜につながる。
氷河湖の右手上部にある雪面を目指して、斜めにトラバースするように下り、そして右手の雪面を目指して登る。氷河湖の左手からも行けるが、過去の経験から右手のルートの方がベターとのナワン・サキヤさんの意見。浮き石が多く、又石車で滑りそうな厭な下りのトラバースだが、サキヤさんは非常に慎重にルートを選び、我々を先導してくれた。
雪面の手前の岩のところで休息。
雪はしまっており、ワカンの必要はないとのこと。岩の下にワカンをデポして、傾斜約30度の雪面をジグザグに登る。くるぶし位の堅雪で、最高の雪の状態だ。 広い台地の上に到着し、休息(11時20分)。
その一段上に、前回のドイツ隊のものと思われるトレースが残っていた。
高度は5350mだが、アタック・キャンプはこのすぐ上だからほぼ見通しはついた、今日は無理する必要はないだろうとのサキヤさんの意見で、今日の偵察はこれで終わり今日中にナのロッジへ降りることにした。
シェルパ達は一段上の急な雪面の手前(約5400m)まで、テント、ロープ、スノー・バー等の共同装備を荷揚げしてデポして降りてきた。ワカン、ピッケルは氷河湖の上の雪面のはじまる地点の大岩の下にデポすることにした。
今日は、未だラムドンの頂上は見られなかったが、隊員全員の体調もよく、天気と雪の状態さえ悪くなければ全員登頂も出来そうだと見通しを持つことが出来た。
ヤルンカルカBCに15時05分着、ナのロッジ帰着18時20分だった。
テントは、次回の登頂日の為に張ったままヤルンカルカに置いて行くことになった。今日はヤルンカルカに泊まって明日ナへ下山する予定だったが、これで1日セーブ出来、2日みていた予備日が3日となって随分と余裕が出てきた。今日まで、悪天なしの好条件がつづいてきたが、天気はいつ崩れるかも知れない。予備日がたくさんあれば、それだけ登頂の可能性は高くなる。
ヤルンカルカからナガオンへの下り道で、石車にのって私が滑ってしまった。
一抱えもある道脇の石に抱きついたところを、サキヤさんが跳んできて私を支えてくれて助かったが、運が悪かったら右下の崖を滑り落ちて大変なことになっていただろう。油断をしていたわけではないが、歳をとってバランスが悪くなり足の踏ん張りがきかなくなっているのと、やはり少し疲労がたまっていたのかも知れない。事故は何でもない所で起こる、今後の一層の注意が必要だ。

 10月25日(晴れ)と26日(晴れ)の二日間は、登頂前の体調を整える為に完全休養日とした。

サーダーとラムドン登頂スケジュールを打ち合わせる。
アタック・キャンプからラムドン・ピークまでは結構距離も長く年寄りにはつかれる行程だから、登頂後無理してBCまで降りずに、アタック・キャンプにもう一晩泊まってからBCへ降りた方が安全だとサーダーがアドバイスをしてくれた。彼の意見に従うことにする。休養日の二日間には、風邪をひいたとか、下痢をしたとか、手足に切り傷が出来た等と薬を貰いにくる村人やポーターが結構多く、薬品係でもある私は結構忙しかった。


8.ラムドン・ピーク登頂:

 10月27日、晴れ。

体調が悪くBCに登らせるのは危ないとサーダーが判断したポーター1名を解雇。
彼にこれまでの日当とチップを渡した後、7時30分にナのロッジを出発した。2度目のヤルンカルカBC行きだから、心のゆとりがある。
今日はBCまでなので急ぐことはないと、のんびりと景色を眺めならが休み休み登り、12時30分にBC着。午後は、何度もお茶を
飲み、十分な休養をとった。南西の方に見えるヤルン・リ(5630m)は、3−4時間位で間単に登れるとサーダーは言う。NMAの許可なしで、多くのトレッキング隊が登りにきているらしい。明日に備えて早めに就寝。

 10月28日、晴れ。

そろそろ明るくなりかけた6時40分にBCを出発。
割りと早く氷河湖の手前の丘の上に8時30分着。
雪面までのトラバースは何度歩いても厭なところだ。
先行していたシェルパが雪面の手前の大岩のところで動かない。合流して解ったのだが、我々が大岩の下にデポしたピッケルとワカンが、その後の好天で融けた雪の水が流れ込んで凍結してしまい、とれなくなってしまっていた。
1時間かかって、なんとか全ピッケルとワカンをとりだしたが、私のワカンの片方が折れて使えなくなってしまった。
雪の状態は非常に良く、今日・明日はワカンを使う必要がなかろうと判断し、ワカンは岩の上にデポしてアタック・キャンプに上がることにした。
5766mのピナクル・ピークの下の急なしんどい雪面を登り終わって一服(12時25分)。雪はクラストしていてくるぶし位までしかもぐらず、非常に歩きやすい最高の条件。
しかしこの高度にくるとさすがに歩くペースは遅く、遙か遠くにシェルパ達が先行し、アタック・キャンプを設営してくれていた(15時30分)。
標高は持っている高度計により誤差はあるが、私の高度計は5550m, 他の人達は約5500mとなっていた。
隊としてのアタック・キャンプの高度は5500mに統一しておくことにする。
このACからは、遙か向こうに純白の丸いラムドン・ピークが望まれる。振り返るとガウリサンカルの勇姿が空高く浮かんで見える。ACの右手は、ラムドン氷河に切れ落ちている。ここからラムドン氷河にいったん降りて、氷河上を真っ直ぐラムドンへ向かうルートもあるらしいが、ヒドン・クレバスが多くて非常に危険であり、この氷河ルートは避けるべきだとのナワン・サキヤさんの見解。傾斜がきつく且つ稜線からは雪庇がでているが、左手のピナクル・ピークの稜線に上がってしまった方が遙かに楽で安全なルートらしい。
距離的には随分遠回りになるようだが、経験豊富なサキヤさんの意見に従う。ラムドン・ピークについては、サーダーもこの山をよく知っているサキヤさんに全てまかせているようだ。

 10月29日、快晴。

午前1時に起床し、紅茶をわかし、ラーメンを食べて準備をしていると時間はあっという間にたってしまう。
3時15分アタック・キャンプを出発。
サキヤさんと若いダワの二人が、ピナクル・ピークの稜線への傾斜ある雪壁へルート工作に先行する。
サキヤさんは、真っ暗な中をもの凄い勢いで、アイゼンのツアッケだけで登って大岩の下にスノー・バーを打ち込む。
そこから約20m程右にトラバースして雪庇が一番小さい箇所を乗つ越した。
サキヤさんとダワがフィックス・ロープを設置すると、すぐに私を先頭にメンバーがつづいた。
早朝の出発間際に、この傾斜のきつい雪壁をユマールで登るのは息が切れてしんどい。稜線にでると尾根は暫くは痩せたナイフリッジとなって緩やかに東の方に降りている。尾根を降りきると、弥陀ヶ原みたいに広大は雪面となる。ところどころブレーカブル・クラストになっていて、ときどき膝くらいまでもぐり込むこともあるが、サキヤさんがうまくリードしてくれて、出来るだけクラストした雪面を果てしなく歩き続けた。
6時過ぎ頃から、空がしらみはじめ、ラムドン・ピークの頭に朝陽があたりだした。すぐ近くのように見えるが、ピークはなかなか近づかない。
頂上には左手の北壁を真っ直ぐ登るとのサキヤさんの説明。
右手に回り込んで肩にでるルートは、傾斜が緩くて一見易しそうだが、クレバスが多くてかえって時間がかかり危険だとのサキヤさんの意見。
サキヤさんとダワが、又先行して北壁のとりつき点のすぐ上にスノー・バーを打ってフィックス・ロープを張ってくれた。私たちが北壁の下についた時には、既に50mのフィックス・ロープを2本設置完了していた。もの凄い馬力とスピードだと感心する。
サキヤさんはアイス・クライミングにたけており、各隊が代表選手を出してルート工作するエベレストのアイスフォール隊のリーダーとして何度も活躍したベテランだそうだ。私たちは、ユマールを使ってフィックス・ロープを登った。
ラムドンの頂上直下の斜面はそれほどきつくないが35〜40度くらい。
サキヤさんが「フィックスはどうしますか」と聞いてきたので、「私たちは年寄りでバランスが悪いから、ここもフィックスを張って下さい」と御願いした。安全登山の為には、いいかっこしたり、恥ずかしがることは何も必要はない。
ラムドン・ピークの頂上はテニス・コートのような広い台地になっていた。6名の隊員全員、サーダー、サキヤさん、若いダワとチョンビの全員が揃ったところで、一緒にピークに立った。
頂上到着は9時55分だった。
握手と抱擁。感激の一瞬だ。
ガウリサンカルからシシャパンマ、ランタン・リルンが望まれる。リピモ氷河周辺の山々、テンギラギ・タウの向こうのクンブーの山々、そして東南には鋭鋒ヌンブールが聳える。素晴らしい景観だ。大阪山の会の大西さんからラムドンからの眺望は天下一品と聞いていたが、その言葉に偽りのない最高の景色だ。
天候に恵まれたこと、サーダーはじめ素晴らしいシェルパのサポートがあったこと、全てに感謝したい気持ちで頂上での喜びをかみしめた。
あっという間に時間がたち、記念写真を撮って下山開始。
「折角頂上に登ったんだから、事故のないように降りましょう。」とお互い戒めあい、フィックス・ロープの箇所は懸垂下降で安全に降り、北壁の下へ。そこからACへの帰路は、本当に遠かった。
全員6名が登頂出来たことは,隊長の私には何よりも嬉しいことであり、何度もラムドン・ピークの頂上を振り返りながら、のろのろとACへ戻った。
いつこんなに時間は早くたったのかと思うほど、私たちの歩みは遅くAC帰着は14時50分だった。
11時間半の行動でさすがに疲れ切って、夕食までに全員一眠りした。
サーダーは「明朝、テントやロープの荷下ろしにポーターをよこすから」と言って、休憩もとらずにBCへ一人で降りて行った。もの凄い馬力だ。

 10月30日、晴れ。

昨日の頂上アタックでさすがに全員疲れ、7時頃までぐっすりと眠った。ゆっくりとした朝食をとり、テントを撤収して9時35分にACを出発。
ポーターは未だ来ないので、3人のシェルパがテント4張りとロープ等の装備類等も全て担いで降り始めた。
63歳のサキヤさんも40kg以上はあろうかと思われる荷物を担いでいる。サブザックだけで歩く我々隊員も手伝うべきだったかも知れないが、体力のない悲しさ、手助けするすべもなく、シェルパの後姿を見ながらノタノタと雪面を下るだけであった。
氷河湖からゴロタ石の浮き石の多い急斜面のトラバースは、疲れた身体には大変きつく、休み休みしながらよたりよたりとBCにたどり着いたのは15時だった。
明日からのスケジュールについてサーダーと打合せをする。
当初の計画では、明日1日BCで休養した後、ヤルン・ラ(5310m)を越えて、カニ・コーラ側のヤク道をたどって、カルカ(放牧場)からカルカを巡るトレッキングをしてマルブ経由スリドバンへおりる予定であった。
昨日、ラムドン・ピークからの下山途中、ラムドン氷河からカニ・コーラの方を眺めたが、ラムドン氷河のモレーンが非常に荒れているのを見て、余りにも危険ではなかろうかと危惧した。
サーダーに私の不安を伝えて意見を聞いたところ、「私もヤルン・ラ越えのルートは余り気乗りがしない。峠を三つの越えねばならず、途中水をえられないキャンプ場もあるから、厳しいルートだ。バラ・サーブが往路と同じルートで帰るというのは賢明かも知れない」との見解だった。
サーダーは昨日BCに降りて、今朝装備の荷下ろしをするポーターを送り出してから、一人のポーターを連れて、ヤルン・ラまで偵察に行ってくれたそうだ。
ヤルン・ラへのトレイルは最近殆ど人が歩いておらず、浮き石も多くてフィックス・ロープを張らねばならなかったらしい。
峠からカニ・コーラを覗いてみたが、絶壁に近い状態になっており、懸垂下降をしておりねばならないことが判明したと。重い荷物を担いでポーターが懸垂下降は出来ないので、荷物はロープで降ろさねばならない。おまけにその先のラムドン氷河の荒れたモレーンの上を安全に歩けるのかどうか、全く自信が持てなかったとのサーダーの報告を受けた。
「ラムドンに登頂出来たのだし、危険を冒してカニ・コーラ側に下山する必要もありませんから、当初の計画は放棄して、往路と同じルートでシガテイへ帰ることにします。」と私の意見を正式に伝えた。他の全メンバーも私の意見に同意してくれ、むしろほっとしたような雰囲気であった。

 10月31日、晴れ。

のんびりと7時頃まで寝て、9時にBC出発し、12時にナのロッジに帰着。
やはり屋根のあるロッジは暖かく落ち着く。これまでの禁酒がとけて、夕方からロキシーとウイスキーで乾杯。全員登頂を祝い非常に盛り上がった。
これまで、ダルバート以外は殆どまともな料理を作らなかった我が隊のコックだったが、その日の夕食のピザは秀逸であった。
ナワン・ヨンデンさんは、下山はベデインからデンデン・カルカを通って、ダンドルン・ラ越えのカルカからカルカを巡る素晴らしい景観の道から、タシナム経由でジャガットに降りようとの新提案を出してくれた。
このルートはときどきヨーロッパ人のトレッカーが歩いているが日本人隊は未だ誰も歩いたことがない筈だとのこと。全員サーダーの意見に大賛成で、デンデン・カルカ経由の迂回路をとることに決定し、登頂後のロッジでの晩餐は大いに盛り上がった。

 11月1日、晴れ。

今日は完全休養日。何するともなく、メンバーそれぞれが好きなことをして1日を過ごした。ナワン・ヨンデンさんの一番若い弟がガイドをするノルウエー人5人が、泊まりにきた。明日からテシラプチャに上がるのだとのこと。

 11月2日、晴れ。

ノルウエー人は、裸になって体操をする者、半ズボンに半袖姿でこれから出発しようとする者等異様な連中だった。我々は9時10分にナ村を出発し、ベデイン着12時5分着。
途中、サーダーはあのノルウエー人達のマッチョ姿は、高所には最も不適。
今日は彼等の救助の為に救援のヘリコプターが2−3回飛ぶだろうとの予測を出した。
まさにサーダーの予言通り、その日はカトマンズから2台のヘリコプターがツオー・ロルパの方へ飛んで行き、折り返しカトマンズの方へ帰って行った。
ナワン・ヨンデンさんによると、「高所では、頭、手、足、そして身体全体を外気に直接触れさせないように常に注意せねばならない。そうしないと乾燥した冷たい空気のため、高度障害にかかる危険性が極めておおきいのですよ。」との意見だった。
確かに、サーダーは暑い日中でも半袖のシャツ姿になることは殆どなく、長袖の下着は必ず着ていた。
4180mのナ村で生まれ育ち、その後数々の高所登山を経験してきた人の生活の知恵なのであろう。
その夜はサキヤさんとの最後のお別れの晩となり、ロキシーで乾杯し別れをおしんだ。日本語、英語とも片言しか喋れないが、意志は十分通じ合える、きめ細かい心配りの出来る素晴らしいベテラン・シェルパであった。僅か10日ほどのおつきあいであったが、忘れられない人となった。機会があれば、ぜひ又一緒に山に登りたい人だ。貧乏所帯の我が隊だが、サキヤさんには出来る限りのチップをはずんだ。

 11月3日、晴れ後曇り。

ベデインを8時に出発し、吊り橋を渡ってロールワリン河の左岸を、激流を見下ろしながらトラバースしてデンデン・カルカに9時半着。このあたりから全山一面と思われるほど、石楠花の木が多くなる。幾つかカルカ(放牧場)があらわれる。
春から夏にかけては、素晴らしい牧草地になり、花が咲き乱れ、タシナムやシミガオンの村人がヤクを追ってやってくるらしい。又、ガウリサンカルや東方のラムドン・ピーク等の山の景色が素晴らしいとサーダーは言う。かなり疲れて4時50分にマニデイングナ(Manidingna)という標高3840mのカルカに到着。

 11月4日、曇り後雨。

久しぶりに朝から曇り空。
チョルテンの立つダルドルン・ラ(3976m)に8時50分に着いたが、空はすっかり曇ってしまいガウリサンカルやシシャパンマ等の山は全く見えず。峠からはかなり傾斜のきつい下り道となり、足がガクガク。ポーターはタシナム村出身者が多いので、飛ぶように先に下ってしまった。
我々がタシナムに着いたのは14時50分だったが、それから暫くすると雨が降り出した。
約20日振りの雨は、その夜は土砂降りの雨となって一晩中降っていた。

 11月5日、雨。

昨日からの雨は、朝8時頃まで降り続いた。
山の上の方は白い雪で覆われていた。1日遅ければ、ダルドルン峠は越えられていなかったであろう。
今日は休養日と決めていたので、これまた、非常にラッキーであった。タシナム村出身のポーター達は自宅に帰り、家族との再会を楽しんでいた。

 11月6日、晴れ。

タシナム8時45分出発、下ジャガットに11時30分到着。
今日はスリドバンまで行く予定だったが、サーダーもポーターも3時前までやってこず。
どうも、タシナム村出身のポーターがなかなか自宅から戻って来ず、サーダーも彼等の家族とロキシーを楽しんでいたようだ。
結局その時間からの行動は無理なので、その日はジャガットに泊まった。

 11月7日、晴れ。

ジャガットを7時40分に出て、スリドバンに11時20分着。
スリドバンのキャンプ場で昼食としたが、「ギブミー・ペン」「キャンデイー」などと叫んで我々を追いかけて群がってくる子供達が沢山いて大変不愉快であった。
これまでは、子供達が乞食のような真似をする村は全くなかったが、下界に近づくにつれて家庭の躾がだらしなくなり、こんな乞食のようなあさましい子供達が育ってしまったのであろう。
14時20分にシガテイに着いて、Seagull Travelの事務所に電話を入れた。
明日11月8日は休養日とするので、11月9日に間違いなくカトマンズへおりられるようにチャーター・バスの手配を頼んでおいた。

 11月8日、晴れ。

早朝からキャンプ場の横の川で魚釣りをするもの、シガテイ村へ散策に行く者、それぞれが好きなように、休養日を楽しんだ。
その日の夕刻には、依頼したとおり、きちんと迎えのバスがやってきた。夕刻には、ロキシーで酒盛り。
 11月9日、晴れ。

6時55分にチャーター・バスでシガテイを出発したが、パンカールの村で村人のバリケードに塞がれて大渋滞(14時半)。
物価高騰、灯油不足などに抗議して、村人代表が政府と交渉しているのだとのこと。
延々と待たされ、倒木のバリケードが取り払われて車が通れるようになったのは、午後5時過ぎであった。
カトマンズ市内が近くになってから、またまた渋滞となり、タメルのインターナショナル・ゲスト・ハウスに着いたのは20時頃であった。29日間のロールワリン遠征は、これで無事に終了した。

 今回は、他の隊員はネパールが初めてなので、その後カトマンズ、ポカラでの観光を楽しみ、日本に帰国したのは11月18日だった。




今回のロールワリン遠征は、平均年齢68.5歳の6人全員がラムドン・ピーク(5925m)に登頂出来、非常にラッキーであり、私たちにとって最高に素晴らしい結果だった。
全員の体調が大変よかったこと、又高度順応タクテイックスがうまく行き誰一人深刻な高度障害にかからなかったこと、そしてナワン・ヨンデンさんという素晴らしいサーダーを得、豊富な経験と実力を持ったナワン・サキヤさんという優秀なシェルパのサポートがあったこと、そして何よりも天候に恵まれたことが全員登頂に結び着いたものと思う。全員無事に登頂出来たことは、隊長の私として何よりも嬉しかった。

登頂後、BCからナへ下山するとき、一緒に歩いているサキヤさんが、こんなコメントをしてくれた。「バラ・サーブ、ウオーク、ベリー・ビスタリ、ビスタリ。ソ、エブリボデイ、キャン・ゴ、イン・オーダ。イッツ、ベリー・グッド(隊長が非常にゆっくり歩くから、皆が乱れずに一緒に歩くことが出来て、大変よかった)」。
 ポカラでの観光を終えてカトマンズに戻ってきてから、ナワン・ヨンデンさんから電話を貰った。全員で自宅へ遊びに来て欲しいとの招待であった。
御家族にご迷惑をかけるのは避けたいと、どこかのレストランで私たちが夕食を招待したいと申し出たが、「是非是非我が家に来て下さい」との強いお誘いを受けて、ナワン・ヨンデンさん直々のお迎えのタクシーで、サーダーの自宅へ出掛けた。
サーダーの家は、カトマンズ北方の郊外住宅地に建つ緑の芝生の庭のある素晴らしい瀟洒な一軒家だった。
奥様の手料理で昼食をもてなして下さり、恐縮してしまった。
手作りのドブロクを飲みながら、次々とでてくる料理を御馳走になった。「ウイスキーもどうぞ」と新しいスコッチの瓶が開けられ、「マア一杯」、「もう一杯だけ」とすすめられる。
奥さんの手作りの大きなデコレーション・ケーキまで出てきた。
ケーキには「2008 NEPAL・JAPAN FRIEND CLIMB」と私が頂上用の旗に書いたのと同じ文言が、クリームで書かれていた。

 ラムドン・ピーク登頂ルート図 

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「1」  ロールワリンについて … 遠征準備
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「3」  ラムドン・ピーク偵察そして登頂
「4」  遠征記録
「5」  ロールワリンの山々

ナワン・ヨンデンさんに、丁重にお礼を申し述べたところ、次のような言葉がかえってきた。
「今まで、随分たくさんの遠征隊で山に登りました。年輩の方が登頂されることもありましたが、今回のように70歳近いメンバー6人が全員登頂されたのは、私の遠征経験で初めてです。こんな素晴らしいことはありません。皆さんと同じように、私も非常に嬉しいのです。おめでとうございます。」との暖かい言葉をいただき、ネパール帽子のプレゼントまで頂戴した。
全員が、胸がジンとなるほど心から感動した。ナワン・ヨンデンさん宅での素晴らしいパーテイは、今回の遠征隊の隊員すべてにとって、いつまでも忘れられない思い出になるであろう。